20190317

「最高の結果を出すKPIマネジメント」 中尾 隆一郎 著 ~最終回~

 

<概要>

 リクルートで11年間社内講師を続けた筆者による「KPI」の,効果を発揮する正しい使い方

 

1) KPIマネジメント実践の前に

 KPIマネジメントを実践する前に把握すべきは,会社のその年の方針・キーワード。それを意識せずにKPIマネジメントは実践できない。

 経営の最終目標,つまり,KGIは利益になること。そして利益最大化のためには,「売上を伸ばす」,「費用を下げる」,「費用をかけて売上を伸ばす」の3つの施策が必要。3つ目は,いずれも変数になるので難しい。その場合は,売上/費用における「定数」を設定するのが妥当。これもKPI化できるものと言える。

 

2) 事例・・・いずれも,結果を出したいものの「モデル化=計算式化」がポイントになる

 ・営業プロセスを分解し,プロセス単位ごとに,受注率を上げる施策を考え効果を出してから,営業活動量を増やす施策を考える。エリア限定施策の検討も一つの手法

 ・顧客分析を通じて,優先顧客を決定,対応グレード分けを行う

 ・顧客アプローチ手法をABテストなどを通じて実施 など

 

 

<ひと言コメント>

 

 正しくやらないと,効果は出ない

 

 どんなに素晴らしい効果があるものでも,それを正しくやらなければ効果は出にくいもの,です。たとえば,服のボタンを外さずに着ようとすれば,着にくいのは当たり前。物事には「順序」というものがあります。順序を守ってもいないのに,「効果が出ない」と吹聴する方,多いなあ,と感じます。経験的には声が大きい方ほど,その傾向が強いような・・・。

 

 KPIマネジメントを導入する際も,その順序,手順は必要だと思います。本書では,KPIマネジメント導入ステップについて,その手順がまとめられています。ただ,ところどころで,KPIマネジメントを導入することへの反発めいたものが多数あったことを感じずにいられません。それをどうするか?

 

 正攻法は,説得でしょう。一部でやって見せて,効果があったことを見せつける。ただ,「●部門ではできるけど,うちの部門は特殊だから」というようなところが必ず出てきます。そういう部門の方が,実は特殊でも何でもなかったりすることが多いのですが・・・(苦笑)

 

 もう一つは,トップダウンでの強制。ただ,トップの本気度が問われます。これまで朝令暮改を繰り返してきたような組織の場合,「ああ,また例のアレだろ?」みたいなことになりかねない。

 

 もう一つは,ファンを増やす。KPIマネジメント自体は非常にロジカル。つまり,理にかなっている。理にかなっている,ということは,一定数のファンを作ることは可能。ただ,情緒で引っ張るタイプの方が,まるっきり理解できない可能性がある。

 

 他にも方法はあると思いますし,どれが正しいとは言いにくい。その組織の状況というものがあるからです。

 しかし,KPIマネジメント自体を正しい手順で行うことも大切なのですが,それを導入するのにもまた,正しい手順が必要なことは忘れてはならない,ということは押さえておいた方がよいと思います。


20190310

「最高の結果を出すKPIマネジメント」 中尾 隆一郎 著 ~第3回~

 

<概要>

 リクルートで11年間社内講師を続けた筆者による「KPI」の,効果を発揮する正しい使い方

 

1) KPIマネジメント実践のコツ

 KPIは1つ。その事業や企画など,を進めてよいか,だから。ただ,1つに絞り込むのは難しく,不安にもなりやすい。それでも1つにしないと意味がない。「改善のため」=Plan-Decide-Do-Seeのサイクルを,何度も何度もまわすため,に,KPIを設定するのだから。徹底的にパクり,そして,進化させる=TTPSが,KPIマネジメントのポイント。

 KPI共有のためのコツは,語呂合わせ,具体化した言葉など,共通で語れる,覚えられるようにすること。

 また,「安打数」と「打率」なら,「安打数」をKPIにすること。「打率」にすると,分母も変数なので,「打席に立たない」といったマイナス動機が働く可能性が出てしまうから。

 

 

<ひと言コメント>

 

 コツは,「まずはやってみる。やりやすいところで」

 

 学んだこと,というのは,使ってみないと忘れます。具体的なものが積み重なって,抽象的な概念となってあらわれる,とでも言えるのかもしれません。本書でテーマとなっているのは「KPI」ですが,実際のところは,「やってみないとやっぱりよくわからない。」ドロドロした部分,生々しい部分,が,「KPI」という言葉になった瞬間そぎ落とされる。そして,単に言葉だけだと,忙しい日々の中で忘れていく・・・。

 

 だから事例はわかりやすい。たとえ他者の事例だったとしても,追体験しやすい面があるわけですが,でも,それより強力なのは,「自分で使ってみること」だと思います。自分の中で事例をつくる。

 

 ただ,いきなり重要なところで使うのは,正直難しい。たとえば,コメディアンの方々がネタを披露されるときも,事前にご家族やご友人の前で披露したり,小さな場で試してみて反応を見たり,そういったトライアルがあってから,大きな場でネタとして出す方が多いようですが,それと同じように,トライアルをしておけば,成功する確率が上がる。

 

 大切な場に向けて,趣味の場で使っておく,という方法もありますが,その趣味が大切であるほど使えない,というようなことも起こりがちかもしれません。すると,事前に日々の生活の中で使っておけば,使いやすい。使うハードルが下がります。

 

 たとえば趣味が「楽器の演奏」だったとしたとき,「ライブを年間3回やる」という目標を決めたとしたら,演奏内容とその練習は当然必要。それを計画立てて取り組むことになるはず,です。それだけでなく,ライブ開催のタイミングを決め,場所を決め,集客を考え施策をうち・・・といったことも,考える必要が出てくる。PDCAも使えるでしょうし,生産性も考えられる。そして,KPIも使える。でも,それを大切な「趣味」の中で,いきなりで取り入れられるか?

 

 そんな「晴れの日」に向けて,日々の生活の中で,まずは使ってみる。

 

 そう考えると,3月10日のコラムでご紹介したネタは,秀逸だ・・・と思います(私が考えたネタではありません)。世の中には,そんな秀逸なことをひらめき,実際に行動をできる方がいらっしゃるんだ,と,心の底から思います。


20190303

「最高の結果を出すKPIマネジメント」 中尾 隆一郎 著 ~第2回~

 

<概要>

 リクルートで11年間社内講師を続けた筆者による「KPI」の,効果を発揮する正しい使い方

 

1) KPI設定ステップ

 KPIの設定には,基本形がある。それは,次の手順を踏むことである。

 

1:KGI確認(=会社の目標確認)

2:現状とのギャップ確認

3:自社のビジネスプロセス策定とビジネスの数式モデル化

4:最重要プロセスの抽出

5:KPIの設定(=自部門の目標設定)

6:KGIとKPIとの関係など整合性,数値確認の安定性,運用の単純性の確認

7:KPI悪化時の対応策の事前設定

8:関係者間での合意

9:運用

10:改善

 

 4においては,数式モデルのうち,自らコントロールができないものは定数として置いてしまうのがポイント。

 7は,資金追加投入,人員の追加投入の2つの視点から考えることになるが,そのときのために,いつ,どの程度悪化したら,どうするのか,その最終判断は誰がするのか,を決めておくこと,がポイントだ。

 

 

 

<ひと言コメント>

 知識があること≠「知っている」

 

 

 「知っている」という言葉は,かなり難しい言葉だと思います。というのも,「その程度」を表現すること,あるいは,共通の指標で語ること,が,難しいからです。

 たとえば,「KPIを知っていますか?」という問われた場合,知識として知っているのか,使ったことがあるのか,使う場合のポイントまで知っているのか,その課題まで知っているのか,どのレベルのことを問われているのかがわからない面があります。実際に答えるときに,「知識理解のレベルか? 適用のレベルか? 応用のレベルか? どのレベルの話か?」と質問できるなら質問したい。逆に言えば,その3段階程度には分けて考えた方が良いことばなのではないか,と思います。

 ちなみに,「知識理解とは,辞書上の定義について間違いない状態で話せること」,「適用とは自分の仕事などの専門領域で使った経験があり,かつ,その効果と実践上の注意点を語れること」,「応用は自分の専門領域以外でも適用させられること」程度の理解をしておくとわかりやすいかもしれません。

 

 さて,ここで考えたいのは,「知識理解のレベルで,<知っている>と言えるのかどうか?」ということ。

 

 私は,「知っている」と言っても良い,と考えています。しかし,2つの注意点がある。

 1つは,知識理解の上のレベルがある,ということ理解していること。上には上がいる,というヤツです。それを知っていれば,質問することができるはず。「適用する際に,課題となりえることに,どのようなものがあるか?」

 もう1つは,知識理解のレベルでも,自分の言葉,自分の理解の形を語ることが大切だ,ということ。借りてきた言葉のママでは,他者に合わせて,その知識に関する話をすることができないから,です。

 

 「知らないことを,知らない」という言葉があるように,「知らないこと」に気づかないことは多々あります。そして,「知っている」と言っても,そのレベルにはかなりの差がある。

 この事実を理解するには,「知らないことを,知らない」ということに,実感レベルで気づくことが必要になるのかな,と思います。すると,自然と,知らないことに対して謙虚になっていくのではないか,とも思うのです。


20190225

「最高の結果を出すKPIマネジメント」 中尾 隆一郎 著 ~第1回~

 

<概要>

 リクルートで11年間社内講師を続けた筆者による「KPI」の,効果を発揮する正しい使い方

 

1) KPIマネジメントには,現状・ゴール,ビジネスプロセスの関係理解が重要

 KPIマネジメントを行うには,目指す状態とその数字目標であるKGIを設定することになる。このKGIの達成に向けて,さまざまなビジネス活動を行うことになるが,それはビジネスプロセスとして表現できる。その中で,目標の実現に向けて最も重要となるビジネスプロセスがCSFであり,CSFを数字目標として表現したものがKPIである。

 

2) ダメなKPIのポイント ~ KPIマネジメントに失敗するワケ

 KPIマネジメントに失敗する大きな理由の1つは,KPI設定段階での問題で,次の4つのうちのいずれかに当てはまっている。1:たくさんの数値目標,2:現場でコントロールできない数値,3:先行指標でなく遅行指標の選択,4:定期的に観察している数値から選択しようとするが,その中にCSFのモニタリングとなる数値が含まれていない

 

 

 

<ひと言コメント>

 正しい定義の理解,と,自分の意思

 

 

 学校で出題される問題は,その多くの場合,答えがあります。それは,定期テストや入試などを思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。ただ,中には「自分で正解を見つなければならないもの」もあります。たとえば,読書感想文は,本来はその典型です。もちろんその本の著者が,伝えたいことはあるでしょうが,それをどう受け止めるかは読者に任される。なのですが・・・

 

 現在は,他人のブックレビューの感想や評点と自分の感想・評点が近いこと,あるいは,それが違うことに価値を求めているような不思議な現象が当たり前になっているように感じます。

 

 もちろん,他人のブックレビューを参考にするのは構わない。けれど,たとえば,この本はもう二度と読まない,と判断するかは,その読者にとっての正解であり,他の読者にとっての正解とは限らない。このことは,絵本などを例にしてみるとわかりやすいかもしれません。たとえば,「絵本は,絵本という理由で,小学校高学年になったら読まない」としたのだとしたら,他者の基準に従っているだけ。

 

 いずれにしても,このような判断をするときに重要になるのは,その本の中での言葉の定義を,正しく理解してその本を理解できたのか? ということ。誤った定義理解で読み進めたら,誤った理解しかできるはずがない。

 

 本書は,KPIの使い方の本ではありますが,その指摘は,KPIが「正しく理解されていない,正しく理解されていないのに使われてしまっていることが,問題なのだ」ということのように感じます。

 

 確かにKPIを「これまでに一度も聞いたことがない」という社会人の方は少ないかもしれません。実際,ビジネスの場面ではよく使われるものでもある。それなのに,効果的に利用できないのは,その使い方以前に,KPIとは何か?の正しい理解の不足に問題があるのではないか,という仮説は成り立つ。

 

 そもそもKPIとは何か? 目標との関係,PDCAとの関係,ビジネスプロセスとの関係などは? それを語れることが,KPIというものを使いこなすための一歩と言うことができるかもしれません。


20190218

「学力の経済学」 中室 牧子 著 ~最終回~

 

<概要>

 本当に効果のある教育とは? 統計というエビデンスを用いた教育論・教育手法の評価

 

1)将来の年収に影響する力は,「非認知能力」

 将来の年収の他,学歴・就労形態などに影響する力は,IQや学力テストなどの認知能力ではなく,非認知能力。非認知能力とは,自己認識力・意欲・忍耐力・自制心・社会的適正・回復力・対処能力・創造性などのこと。

 中でも自制心とやり抜く力重要。このとき利用できるのは,細かい計画,実行の記録づけとその自己管理。

 

2) 少人数学級よりも費用対効果の高いものがある

 少人数学級は,学力向上との因果関係は確かにある。しかし,費用対効果の面からみると,低いかもしくは効果がない。

 では,費用対効果も高い手法は何か? それは,教育の収益率に対する情報提供をすること。具体的には「高卒後すぐ働く人と,大卒後働く人とでは,生涯稼げるお金に1億円の差がある」ことを伝えること。

 また,「人の能力は平等」の考え方を出発点にすると成果が出ない。実際には,遺伝の影響,家庭の経済状況など,子ども自身がどうすることもできない要因が影響している現実に目を向けた施策の方が重要。

 

3) 効果的な教育手法

 子どもの学力を上げられた教員は,質が高い。そして,その意味で質が高い教員は,10代での妊娠確率を下げ,大学進学率を高め,将来収入も高める。つまり,教員の数ではなく,教員の質を上げる施策の方が効果が高いと考えられる。

 ただし,教員研修は,教員の質に影響を与えないというのが大勢。今後,「教員の質を高められる手法の発見と開発」が重要。 

 

 

<ひと言コメント>

 「それやったら,カネにつながるの?」

 

「人生の成功」とは何か? という問いに対して,ひとつの正解を導くことは実は難しいと私は考えています。人生で成功するための習慣をまとめたことで有名な「7つの習慣」では,「あなたが目指す姿・ありたい姿」が成功の定義。この定義は,私にはしっくり来るのですが,取り扱いが厄介な面があるのは,否定できません。

 

 そんなことが背景にあるからか,「成功とは=経済的な面での成功」と考える方は,決して少なくないと思います。実は,これは統計を扱う場面でもわかりやすい。カネを唯一の指標にできるからです。「それやったら,カネにつながるの?」ということ。

 そして,この成功の捉え方は,ビジネスの世界では非常に親和性が高いと,私も思います。

 

 では,たとえば政治や宗教の世界では???

 

 世界的なロックスターで,ロックの殿堂入りも果たしたBONJOVIのヴォーカリスト,その道での大の成功者とも言えるJohn Bon Joviのインタビューが,BIG ISSUEに掲載されていました。「政界進出するのでは?」との憶測が流れていたことに対し「その分野の勉強をしてきていない」というような表現で,そのウワサを否定しています。芸能ビジネスという世界での成功の手法を,政治という世界に持ち込むことはできない,という理解をしている。実際には,慈善事業も含めた貧困層向けの活動をしていても,です。

 

 それぐらい,カネという指標は単純でわかりやすい。逆に言えば,商業ビジネス活動ぐらいは,カネという指標で徹底的に語れないとプロとは言えない,ということなのかもしれない。

 

 そう考えると,「数字に弱い」なんて言ってられない。統計がわからないなんて言ってられない。だから,国の統計が信用できないなんて「冗談じゃない!」


20190211

「学力の経済学」 中室 牧子 著 ~第2回~

 

<概要>

 本当に効果のある教育とは? 統計というエビデンスを用いた教育論・教育手法の評価

 

1) エビデンスベースの教育

 エビデンスベースの教育とは,因果関係が明らかになったことを利用した教育である。「子どもの目が輝いた」「学校に活気が出た」といった,主観的な表現で表されるものではない。また,「他人の成功体験」を利用するものではなく,実際に差が生まれることが明らかになった教育手法のこと。

 

2)効果的な教育手法

・ご褒美で子どもを釣る教育:

 効果がある。ただし,そのご褒美は,「テストの点」などのアウトプットにではなく,「本を読む」「毎日勉強に取り組む」といったインプットに与えるべき。「努力を認めること」が力を育み,「勉強の仕方」を学ぶことにつながる。

 

・闇雲なホメて育てる教育:

 マイナス効果。「自分はできる」という自尊心は,「勉強をした結果」生まれるものだから。「やればできる」という育て方は,「実力の伴わないナルシスト」を生む。

 

・ゲームやテレビは,息抜き程度に利用される分に,マイナス効果は生じない:

 ゲームやテレビを止めさせたところで,勉強に向かわなければ効果が出ない。

 

・学力は,周囲の影響を受けるが,口先関与では効果がない:

 「共に高め合う」こと,十分なサポートが必要。

 

・教育投資は,幼児期ほど重要。

 

 

 

<ひと言コメント>

 初期投資の重要性

 

 この1週間,私はあるクライアント企業さんの入社者研修を担当させていただきました。

 一般的な入社者研修のプログラムは,たとえば報連相やあいさつ,ビジネス文書の書き方など,「こういう時は,こうしなさい」という1:1対応のものが多いように思うのですが,今回の研修で私が提示したのは,「こうしろ,と言われるのはナゼか? その理由を考えよ」というもの。他社の人事部長にもご出席いただいたのですが,「難しすぎないか」とのご意見をいただくほど,そして,私自身も少し迷うほど,かなりレベルが高いものでもありました。

 

 それでもあえて「理由を考えてもらう」研修にした第一の理由は,クライアント企業さんと,そのクライアント企業さんが抱える課題について,同じ視点でとらえることができていたから。実際,完全オリジナルでプログラムをつくりましたが,目線合わせ1回の後,こちらからプロットを一度提示した後は,特段のやり取りもなく,研修の最終資料化,研修本番というステップを踏みました。それぐらい,課題を明確に共有できていた,ということだと思います。

 

 もう一つ大きな理由で,むしろ大きな理由となったのは,「初期ほど重要」ということが,これも同じように共有できていたから。このことは,「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように,「感覚的」にも言えることではあるのですが,統計的にも言えることだったからでもあります。

 

 本書では,幼児教育ほど教育効果が高い,との研究成果が共有されていますが,学ぶべきは「勉強法」とされています。入社者というのは,その企業,その業界での幼児と言い換えても良い存在。そうとらえれば,「同じこと」と言えるのではないか,と考えられる,ということです。


20190203

「学力の経済学」 中室 牧子 著 ~第1回~

 

<概要>

 本当に効果のある教育とは? 統計というエビデンスを用いた教育論・教育手法の評価

 

1) 教育経済学とは,行動経済学の一分野

 行動経済学は,人のさまざまな行動を,統計的な手法を用いて評価する学問分野。そのうち「教育」領域に限定したものを教育経済学と言う。

 

2) 教育経済学による各種分析によって判明しているさまざまな教育論・教育手法効果

 教育は,誰もが経験をしていることもあり,誰もがその有効な方法を語ろうとする。しかしその多くは,個人の一経験に基づくものに過ぎず,エビデンスに基づくもの=統計的にその有効性が認められたものではない。

 たとえば,以下は,統計的にその有効性が認められる手法であり,直感と反するものである可能性もある。

 

 ・ご褒美で釣っても「よい」

 ・ほめ育てしては「いけない」

 ・ゲームをしても「暴力的にはならない」

 

 

<ひと言コメント>

 一部だけを切り取った言葉の一人歩き

 

 人間の「直感」というものは,非常に優れたものだと思います。「なんとなく,イヤな予感がする」というようなときに,「その直後実際に何か問題が起きた」という経験は,多くの方がされているのではないでしょうか。

 

 一方で,そのような直感だけに頼ることが,決して効率的とは言えないことも,多くの方が経験されているはず。

 たとえば,以前のスポーツ界には,いわゆる根性論がはびこっていました。「水を飲むな」「死ぬ気でやれ」「俺たちはこうやってきた」といったことは,どんどんなくなっています。「うさぎ跳び」をトレーニング方法として「常時」取り入れているようなところもないはず,です。今となっては当たり前なのかもしれませんが,直感だけに頼っていたら,このような変化は起きなかったのでは? と考えられるわけです。

 

 とはいえ,「<エビデンスに基づく>と言われているもの」にも,課題はあります。

 たとえば,「ある条件下においては」など,範囲が限定される場合があるほか,必ずしも情報の質と量が担保された結果でない場合がある,という点などです。いずれにしても,「一部だけを切り取って」理解してしまうと,それが「誤った理解の可能性」もある,ということです。

 

 本書の第1回で示した「概要」の3点は,あえて,本書の表現のママで,取り上げています。いずれも,「一定の条件下で成り立つ方法」であることが,本書でも指摘されていますが,しかし,上記のように表現された部分のみを読んだときの印象は,どのようなものでしょうか? 「極端な教育」に誘導してしまう可能性もあるのでは?

 

 同じことは,統計に限らず起こりえます。あらゆる事柄が,文脈ナシに受け取った場合,つまり切り取り方次第では,まったく反対の話として受け取っている場合すらある。

 

 冒頭,直感の有効性について触れましたが,実はこれにも疑いが出てくるのです。

 「なんとなく,イヤな予感がした」のにも関わらず,「その直後に何も問題が起きなかった」経験は,多くの方がされているのではないでしょうか。そして,実際には,「イヤな予感がした」のにも関わらず,「その直後に何も問題が起きなかった経験」の方が,実際には「多い」のではないでしょうか? 

 さあ,印象はいかがでしょうか?


20190127

「仕事に使える「指標」設計入門」 小谷 祐朗 著 ~最終回~

 

<概要>

 指標をつくるための統計分析とその活用方法の枠組

 

1) 独自手法づくりの手順

 独自手法は,いずれも同じ手順で開発ができる。

 

・回帰分析を利用したモデル ~ 割安不動産を発見

 実物件で散布図作成 → 回帰分析 → 回帰直線に基づく「予測値」と「実測値」との差分を順にプロット

 

・時系列解析における自己回帰モデル ~ 過去のデータで現在を説明するモデル

 当日データの分布生成によりモデル確認 → 前日・2日前・3日前・・・など,過去データとの相関係数算出 → 相関係数の高い順にプロット・可視化 → 極端な動きのある時のイベントを抽出

 

・ロジスティック回帰を利用したモデル ~ リコメンド閾値設定

 ロジスティック分析の予測確率に基づくヒストグラム作成 → 予測確率の要約統計量算出 → 四分位点・中央値・平均値・最大値などを閾値にしリコメンド基準とする

 

・因子分析を利用したモデル ~ キャンペーン施策の評価

 因子分析 → 因子抽出 → 2因子をx・yとして商品ごと因子得点に基づく散布図作成 → グループ共通性抽出 → 因子得点の発生ヒストグラム生成 → 当該因子との関係性が低い商品を除いて再度因子分析 → 散布図の変化で評価 

 

 

<ひと言コメント>

 「素直さ」×「批判的思考力」

 

 人々は,様々な活動をしています。

 それらは本来はデータとして取得できるもの。たとえばあるひとつの企業でも,商品・サービスの販売,各人の活動履歴,給与などなど,さまざまな活動があり,データ化できるものはあるわけです。それでも,その活動をデータ化していなかったり,データはあっても分析はしていないものはたくさんあるでしょう。

 

 多くの方が,それらのデータから,生産性に関わるさまざまな事実を発見することができると考えています。それがビッグデータを収集する動機でもあるわけですが,それ以前に,今あるデータでもたくさんの分析ができる。今,まったく手を付けていないのであれば,それこを多くの価値を生み出せる可能性があるということ,です。

 しかし・・・

 

 分析に必要なデータ処理をすることはAIが得意なわけですが,それでも,それを集める,何を分析する,どんなモデルで分析するなどなど,は,人間が指示を出す必要がある。AIのために有益なものを抽出したいわけではないからです。こうなりたい,こうなるためには何をすればよいのか,という意思を固め,その仮説を立てられるのは人間だけ。そのとき必要になるのが,基準であり,指標です。

 

 教育の世界では,「批判的思考力」と呼ばれる力が大切だ,と言われています。「批判」という言葉が「非難」と同じ意味で使われてしまっている場合もあり,勘違いされてしまうかもしれませんが,批判するには,基準・指標が必要。つまり,「批判的思考力を持つ・高めること」と「AIに勝つこと」とは同義だ,と私は思うのです。 


20190120

「仕事に使える「指標」設計入門」 小谷 祐朗 著 ~第2回~

 

<概要>

 指標をつくるための統計分析とその活用方法の枠組

 

1) データを理解するための視点

 データを理解する上で重要になるのは,可視化。可視化を考えるときには,次の理解が重要。

 

・分布:二項分布(成功・失敗といった,二択時の分布),ロングテールの分布(パレートの法則など),正規分布(成績分布など)

・グラフ:折れ線グラフ(時系列データなど),棒グラフ(比較データなど),ヒストグラム(度数分布の可視化),箱ひげ図(株価などバラツキのあるデータ),散布図(2つのデータの関係性を可視化)

・数:平均値,中央値,最頻値,分散,標準偏差

 

2) データ分析の手法

 データ分析手法には,次のようなものがある。

 

・相関分析:2者の関係性の有無をとらえる。ただし,因果関係との違いに注意

・回帰分析:yとxの相関関係を関数で説明する。グラフで表現すると直線になる 

・ロジスティック回帰分析:基本は回帰分析と同じく,2数の間の関係を説明する。ただし,確率を求める点に違いがあり,結果,正規分布を累積数で表現したグラフの形状になる

・因子分析:潜在的な変数である因子を求める。たとえば,英数国理社の得点に影響を与えているものは何かを求めることになる 

 

 

<ひと言コメント>

 測定と評価,双方の視点からの歩み寄り

 

 たとえば,学力テストで偏差値60を取ったとします。このときの「偏差値60」というのは,測定された数値です。ただ,同じ偏差値60でも,前回が偏差値70だった方と,同じく前回が偏差値50だった方,とを,同じように評価すべきものではないはず。このように,測定と評価とは別物であることがわかります。

 

 別物,ということは,測定担当と評価担当とは,「分けることが可能」ということになります。

 実際,データサイエンティストと呼ばれる人々は,測定の専門家ではあるかもしれませんが,必ずしも評価の専門家ではありません。測定できれば評価ができるわけではないのです。

 一方で評価の専門家とは,客観的な事実,つまり測定された結果に基づき,特定の判断を示す人。たとえば,精神論や根性論ではなく,数字に基づく評価により納得度を高め,次の行動に結びつけられるよう導くこと,と言えます。

 

 測定と評価の中で2種類の専門家がいる,ということは,その間でコミュニケーションを成立させる必要がある,ということでもあります。このとき「可視化」は,測定側が行う工夫だと思います。一方で,統計の基礎的理解は評価する側が行う工夫である,と私は思います。

 

 測定側と評価側とのコミュニケーションがうまくいかないとき,どうもこれまでは,その責任を測定の側だけにしようとする風潮があったように感じます。

 しかし今後は,そういうわけにはいかなくなるのではないか? なぜなら,それではAIに使われる道まっしぐらなのではないか,と,思うからです。


20190114

「仕事に使える「指標」設計入門」 小谷 祐朗 著 ~第1回~

 

<概要>

 指標をつくるための統計分析とその活用方法の枠組

 

1) 指標とは判断基準

 統計という定量的な指標がなければ,経験や勘に基づく判断が必要になる。経験や勘に基づく判断自体は否定されるものではないが,一貫性が保ちにくくなるという欠点がある。

 指標の設計においては,可能な限りデータを集め,特徴をつかんだうえで,現状(スタート地点)と目的(ゴール地点)をつなぐモデルづくりが必要になる。ここで使われるのが統計分析である。

 

2) 統計数字を読み解くためのポイント

 時間と空間における差異,基準値との差異といった視点で分析するのが,統計数字を読み解く基本。

 その前提の一つは,得られたデータの元になる標本が母集団を代表しているか。もう一点は,データをその性質ごとに適切に扱っているかだ。

 後者について,データには,尺度水準として,名義尺度・順序尺度・感覚尺度・比例尺度がある。この尺度の異なるデータを混ぜてしまうと,算出される統計の信頼性が失われる場合がある。同様のことは,離散値と連続値の関係,クロスセクションデータ・時系列データ・パネルデータ・空間データといったデータの種類においても言える場合がある。

 

 

 

<ひと言コメント>

 損しないためのデータ・統計

 

 国が公表するような基礎統計は,本来的には最も信頼性が高いもの。なぜなら,それは「国費を投入して」集められ,分析されたものだからです。それが疑わしいということが,昨今の厚労省の動きでは明らかになっているわけで,それだけ厚労省がやらかした問題は大きいのですが・・・。

 

 それはさておき,人はさまざまな判断の中で生活をしています。何をやるにしても,たとえば,朝起きることにしても,起きてから何かをやるにしても,そこには判断が加わっています。もちろんその中には,「習慣化」されているものもあるでしょうし,「経験」に基づくものもあるでしょうが,それですら,かき集めればデータ(統計)なのですから,「人の判断はすべてデータに基づく」と言っても,言い過ぎではないのかもしれません。だからこそ,社会ではデータ争奪合戦が繰り広げられている。

 

 「データ争奪合戦なんて,自分には関係ない」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それでも,私たちはデータ争奪合戦とは無縁ではいられません。スマホからは,大量の個人データが収集されています。また,新聞を見ればわかるとおり,世の中データであふれていますが,たとえば企業で働いているとすれば,働くことを通じた企業の売上・利益と,そこから支払われる給料も,争奪対象となっているデータに基づくものです。

 

 でも,それらのデータの出元や扱われ方などは,怪しいものもあります。特に多いのは,「そのデータが全体を表していると言えるのか?(=標本の母集団の代表性)」が疑わしいもの,そして,データの扱い方,です。

 

 データは,適切に扱うことで,はじめてより良い判断に使えるものにできる。逆に言えば,適切にデータを扱えないと,得しないまでも損することになる。義務教育でプログラミングが必修になるとか,そんな問題以前に,データを扱うとはどういうことなのか,そして,その目的は何なのか,をきちんと理解することの方が,余程重要なことだと私は思うのです。


20190104

「ファイナンス思考」 朝倉 祐介 著 ~最終回~

 

<概要>

 「企業価値を最大化するための,長期視点の事業・財務戦略を総合的に組み立てる考え方」であるファイナンス思考と,PL脳の課題

 

1)PL脳の症状②

 ファイナンスの視点から不合理な会社の活動である「PL脳」の症状には,次のようなものがある

 

キャッシュフロー軽視:

 「利益は意見,キャッシュは事実」「勘定合って銭足らず」など,利益とキャッシュの本質的な理解の不足が黒字倒産などを生む。キャッシュ・コンバージョン・サイクルに対する「時間感覚」の欠如は大企業でも起こりがち。

 

バリュー軽視:

 どの事業に注力すべきか? 事業の成長段階や,投資に対する回収規模や期間,MAX・MINの考え方が判断のポイントになる。シャープのテレビ事業の過剰投資や日立のハードディスク事業売却などから学べるものが多い。

 

短期主義:

 目先のPL優先では,事業売却や構造改革など,短期的にコストが発生する施策に着手できなくなる

 

2) PL脳に陥る原因

 PL脳に陥る原因としては,「行動経済成長期の成功体験」「役員の高齢化」「銀行視点の間接金融中心の金融システム」「PLのわかりやすさ」「企業情報の開示ルール」「メディアの影響」が考えられる。いずれも,思考停止の産物とも言えるものではないか。

 

 

<ひと言コメント>

 なりたい自分になる

 

 企業が,外部から経営陣を招き入れるケースはよくありますが,必ずしも成功するわけではありません。

 成功しなかった事例の一つに,刈り取りに成功されてきた方を招き入れたケースがあげられると思います。特に短期での成果を求められた「招き入れられた経営者」は,「他業界,他社での成功体験」を引っ提げて,「その手法を駆使して」取り掛かろうとするものでしょうから,失敗しやすい面があるのだと思います。

 

 もちろん「歴史に学ぶ」ことは非常に大切です。歴史には成功体験も,失敗体験も数多くある。ただ,歴史からの学びは,単純な手法の取り込みではないのではないか,と私は思います。

 もちろん「常識の取り込みによる対症療法」はあるでしょうが,むしろ,市場との関係の中で「そもそもどうなりたかったのか?」を明確にし,その姿に向かってどのようなステップを踏んでいくのか,そして,歴史からの学びをどう取り入れるかを考えるという,もう少し長いレンジを見る中で使うものではないか,と思うのです。

 

 もちろん,誰がやっても・・・,というケースはあるでしょう。ただ,「なりたい自分を捨てて」,テクニカルな部分だけを取り込むという方法では,やはりうまくいくとは思えない。

 

 それは,人も組織も同じではないか。「これをやれ」と言われて「ただそれをやってきた」方にとっては厳しいことなのかもしれませんが,「なりたい」に「なる」ことを目指すからこそ,本当の意味で「歴史から学べ,また,チャレンジもできるのではないか」と思うのです。


20181224

「ファイナンス思考」 朝倉 祐介 著 ~第4回~

 

<概要>

 「企業価値を最大化するための,長期視点の事業・財務戦略を総合的に組み立てる考え方」であるファイナンス思考と,PL脳の課題

 

1)PL脳の症状①

 ファイナンスの視点から不合理な会社の活動である「PL脳」の症状には,次のようなものがある

 

売上至上主義:

 利益ではなく売上高を優先する。売上拡大は必ずしも利益やキャッシュが増えることにはならない。売上の要素を分解しない思考。現場レベルではよく起きている。事業のライフサイクルを見据えたキャッシュの回収の考え方が重要。販売量・売価,店舗別利益などの把握がファイナンス活動の前提

 

単純利益至上主義:

 会計のテクニカルな部分を利用して見栄えにこだわる。マーケティングコストや研究開発費を削る,のれんが発生するM&Aを避けるなど。「利益が出ている,買収価格が低い,成長している」といった要素をすべて満たすM&A候補など存在しない

 

 

<ひと言コメント>

 大きく屈んでジャンプする

 

 人がなるべく高くジャンプしようとしたとき,突っ立ったままジャンプする人は誰もいません。誰もが「膝をなるべく曲げて」,跳ね上がるはず。これは,事業においても同じことだと言えます。

 仮に「膝が曲げられない」のでは,いくら大きく膝を曲げようにも,曲げることができないのですから,どれだけ上から圧力をかけてみたところでムダになってしまいます。大きく膝を曲げられても,必要な筋力が無ければ地面を蹴ることはできませんから,ジャンプができません。

 

 では,足・脚が十分機能していればそれで良いか,と言われれば,そうではありません。実際には,大きな腕の振り,体全体の伸びなども利用して跳ね上がらないと,より高くジャンプすることはできません。膝を曲げることだけではなく,膝を曲げて地面を蹴る筋力アップに,そして,直接そのものだけではなく,周辺にも目を向けて,機能強化をする必要があるということ。

 

 

 これとまったく同じことが事業においてもあてはまると考えられます。つまり,膝を深く曲げることが,広告宣伝費などの直接的な投資だとすれば,組織基盤やインフラ整備,教育といったものの投資が,筋力アップや全身を使うために必要な投資にあたる,ということ。

 

 逆に言えば,それ以前に組織基盤やインフラ整備,教育といったものにきちんと投資していれば,そのものへの直接的な投資だけで大きくジャンプできる。つまり,「それまでのお金のかけ方のバランス」を見れば,その後「本当にジャンプできるのか」が予測できる。だから私は,企業の従業員への教育コスト,インフラ整備コスト,研究開発コストを知りたい,と思うのです。


20181215

「ファイナンス思考」 朝倉 祐介 著 ~第3回~

 

<概要>

 「企業価値を最大化するための,長期視点の事業・財務戦略を総合的に組み立てる考え方」であるファイナンス思考と,PL脳の課題

 

1)ファイナンス思考経営で成功した企業

 ファイナンス思考で成功した企業の代表例には,次のようなものがある

 

アマゾン:赤字・無配続きでも投資家から信任獲得するIR

リクルート:得意分野への特化とM&Aによる海外市場開拓

JT:ポートフォリオの入れ替えとグローバル化

関西ペイント:転換社債発行による資金調達で事業を複線化

コニカミノルタ:経営統合と事業の選択と集中による事業ポートフォリオ経営

日立製作所:聖域化したグループ独立系会社の完全子会社化などの構造改革断行

 

 

<ひと言コメント>

 「窮鼠猫を噛む」ときのマナー?

 

 「ファイナンス思考経営で成功した」と本著者が取り上げた企業を見ると,アマゾンとそれ以外とで,大きく異なる点があります。

 アマゾンは,ご存知の通りGAFAの1つ。創業から相対的に日も浅く,いわゆる現代型企業を代表する企業と言えるでしょう。一方それ以外の企業は,歴史も古く,その道の老舗とも言えるような日本企業群。そして,いずれも経営不振の時代があったか,大きな市場の逆風に見舞われている,あるいは見舞われた企業と言えるわけです。

 

 では,現代型のアマゾンと,ある意味では伝統的な企業群とで,何が共通しているのでしょう? 私は「土俵際まで追い詰められていることなのではないか?」と思うのです。

 

 アマゾンが土俵際まで追い詰められたことがあるのか,正確なところはわかりません。しかし,ベンチャーとして立ち上がった企業という性質上,相当の覚悟で事業を始めているはず。つまり,「覚悟」という意味で,アマゾンとそれ以外の企業とに共通点があるのではないか,ということです。

 

 この「覚悟」は,経営に大きな影響を与えます。「これでやるしかない」という状況になるわけですから,必死さが違う。本著者は,この「必死さ」を「ファイナンス思考」という言葉にまとめているように思います。

 

 「売上・利益やPL思考をするのは王道なのだけれど,その思考にとどまっていたら,リスクが取れない。新規立ち上げのとき,特に技術的にどんぐりの背比べのとき,一気に加速するには,リスクテイクが必要。これは,縮小市場で経営改革,業務改革,組織改革などなどが必要なときも同じ。そのときに重要になるのが,資金調達・資金創出・資産の最適配分といったファイナンスの視点」なのだ,と。

 

 ただ,そのときには,「ステークホルダーとしっかりとコミュニケーションする」というマナーは守らないとマズイ。ステークホルダーには,リスクを共に負っていただくのですから。「そんなこと,知らんかった」と言われないことが重要だ,ということです。


20181208

「ファイナンス思考」 朝倉 祐介 著 ~第2回~

 

<概要>

 「企業価値を最大化するための,長期視点の事業・財務戦略を総合的に組み立てる考え方」であるファイナンス思考と,PL脳の課題

 

1)ファイナンス思考と,その特徴

 ファイナンス思考とは,経営資源である「ヒト・モノ・カネ」を有効活用して会社の価値を最大化すること。つまり,未来に向けた目標を自ら設定し,逆算型で事業成長を目指す点が特徴。ということは,評価軸は長期に渡ってのキャッシュフローの最大化,時間軸は長期的・未来志向で自発的,経営アプローチは戦略的で逆算型,ということであり,計画的な思考ということになる。

 

2) ファイナンスの4つの側面

 ファイナンスには,企業価値最大化のために,「資金調達:最適なバランスと条件で調達」,「資金創出:既存事業からカネの創出を最大化」,「資産の最適配分:築いた資産を投資や株主・債権者への還元の最適分配」,「ステークホルダーコミュニケーション:各経緯の合理性と意思の説明」,という4つの側面がある。しかし企業の全部門は,このいずれかの活動をしている。つまりファイナンス思考は,誰もが必要なものなのだ。

 なお,企業の創業期,成長期,成熟期の3つの段階で,どの側面を重視するか,は変わる。創業期はプロダクトやサービスの作り込みが中心,成長期はプロダクトやサービスをひと回り大きな事業にするために運用面などの洗練を図るとき,成熟期は,複数のプロダクトやサービスを並列運営する組織をいかに経営するか,だ。

 

 

<ひと言コメント>

 ご利用は計画的に

 

 いわゆるカードローン金融会社が,「●●ファイナンス」というような名称の場合もあり,ファイナンスという言葉は誤解を受けている部分があるかもしれません。また,本来であれば一人ひとりの経済面での課題解決策をアドバイスするはずのファイナンシャル・プランナーが,保険商品などのただの売り込み屋になっている場合があることも,ファイナンスの,その印象面に誤解を与える原因になっている可能性も。

 

 ファイナンスは,辞書的な定義で言えば,「1 財源。資金」,「2 財政。財政学。」,「3 金融。融資。資金調達。」となるわけですが,そこに共通するのは「将来に向けて」ということだと思います。ということは,ファイナンス思考というものは,将来を考える人しか使ってはいけないかもしれません。「ファイナンス思考を使うなら,計画的に・・・」

 

 つまり「今だけ」を考えるのなら,ファイナンスという視点は不要ということになるのかもしれない。「宵越しのカネは持たない」ではないけれど,それで良いのかもしれない。でも,そうだとしたら「今を生きるのはナゼ?」

 

 「日々の積み重ねが将来であり未来だ」という考えを否定しているのではありません。積み重ねていくという考えは大切だと思います。でなければ,毎日メルマガなんて出さないし。けれど,「日々の積み重ねをするのはナゼだったっけ?」という視点「も」,必要なのではないかなと私は思います。どちらも必要,要は両輪だということです。


20181130

「ファイナンス思考」 朝倉 祐介 著 ~第1回~

 

<概要>

 「企業価値を最大化するための,長期視点の事業・財務戦略を総合的に組み立てる考え方」であるファイナンス思考と,PL脳の課題

 

1)企業がさらされる3つの市場と企業価値

 企業は,利用する顧客の立場である財市場,働く従業員の立場である労働市場,投資家の立場である資本市場という3つの市場にさらされている。3者は短期的には対立する可能性もあるから,長期的な立場で運営するのが経営者の役割となる。

 ところで,企業は事業の成果,保有する経営資源,会社の価値,という3つの「カネ」の視点で評価される。それぞれに対応するのは,PL・キャッシュフロー計算書,BS,そしてファイナンスである。つまり,ファイナンスとは,その企業が将来に渡ってどの程度のカネを稼ぐことができるかだから,長期的な視点に立つべき経営者にとって最も重要スキルと言えるのだ。

 

2) PL脳とその問題

 PL脳とは,目先の売上や利益を最大化することを目的視する短絡的な思考態度のこと。「時間的価値を考慮しない,資本コストを無視する」ため,また,「事業特有の時間感覚・リスクを勘案しない」ため,黒字事業を売却できないといったことが起こるのだ。このようなPL至上主義的思考は,経営者,投資家,従業員,メディアなどに根づいてしまっている。 

 つまり,現代の日本企業は,ファイナンス思考がないから,大きな構想を描き,リスクを取って投資するという積極性を欠き,成長に向けた道筋を描くことができないのである。

 

 

<ひと言コメント>

 対症療法と抜本策と

 

 ものごとにはいろいろな側面があります。ある人にとって,一見「良いもの」ととらえられていたものが,別の側面から同じものを見たら「悪いもの」だった,ということもあるわけです。

 

 たとえば,病気をしたとした場合,病気をしたから今までの生活を変え,それが成功につながった,としたら,病気をしたことは決して悪いことだったわけではないのかもしれません。つまり,何事にも表と裏があるということ。そして,時間軸の取り方のようなものは,表と裏の見方を変えられる,あるいは,表と裏を冷静に見るための重要な道具とも言えるわけです。

 

 

 本書で著者は,「PLが悪いのではなく,<PLだけ>は悪い」と指摘しています。タイトルが「ファイナンス思考」で,「PL脳の問題」を指摘している章などもあることから,著者が本当に意図するところは目立たないようにしているのかもしれませんし,「PLばっかり言われて嫌になった」という愚痴に聞こえなくもないかもしれませんが・・・。

 

 ただ,「PLばっかり」から抜け出そうとするには,一旦極端に振る必要があるというのも,また事実なのかな,と思います。つまり,「極端に振る」というのも,表と裏を冷静に見るための重要な道具になるのでは? ということ。

 この「極端に振る」という手法は,「対症療法」と「抜本策」とで言えば,「対症療法」に当たる手法なのかな,と思います。つまり,抜本策の準備も必要だ,ということ。そして,「対症療法だけで終わらせない覚悟」,つまり,「一定の時間というものが必要になることへの覚悟」も必要だとも思うのです。

 

 本書にはそのような「課題解決の基本的なアプローチのあり方」を指摘している側面もあるのかな,と感じます。


20181123

「仕掛学」 松村 真宏 著 ~最終回~

 

<概要>

 問題解決のための手段として汎用的に利用できる「仕掛け」の基本と事例

 

1) 仕掛けの発想法1

 人に着目するアプローチがある。その一つは,子どもに学ぶこと。子ども「挑戦したくなる課題」を勝手に作って遊ぶのが得意。つまり,人の行動を観察することが,「有効な仕掛け」を生む力となる。同様のことは,「写真を撮る人」にもあてはまる。

 

2) 仕掛けの発想法2

仕掛けの発想法として使えるものとしては,他に以下の4つの手法が有用である。

 (1)事例の転用 

 (2)行動の類似性の利用:

「ごみ箱」に「捨てる」ことと類似の行動である「投げる,しまう,入れる,当てる,落ちる」といったことから,後者の行動から発想できる物事を導き出す方法。いわば,「AとかけてBととく,その心はC」という発想法である。

 (3)仕掛けの構造の利用

 (4)オズボーンのチェックリストの利用:

「ださく似たおち(代用,逆さま,組合せ,似たもの,他の用途,大きく,小さく)+要素の入れ替え,変更」の利用

 

 

<ひと言コメント>

 常識と非常識のあいだ

 

 しかけるからには,「しかけ」を考える必要があります。

 そして,しかけるからには,しかける対象が存在するわけですから,既に見た「観察」と同様,「しかける対象をよく知る」ということが必要になると思います。ただそれだけで「しかけ」を作ることはできない。豊かな発想力が必要になるわけです。

 

 この発想力の源泉の一つに子どもの観察がある,と筆者は言います。それも,常識にとらわれない,という視点での子どもの発想力。

 確かに,大人になると経験が増える分,「これはこうするもの」「これはこう使うもの」というような常識を,知らず知らずに持つようになるもの。これが,豊かな発想を阻害する原因になっている場合があることは,否定できないと思います。

 

 一方で,「非常識だけ」で,物事がうまくいくわけではないのも事実。

 ということは,私たちに必要なのは,「常識と非常識の間」。と言うよりも,「常識と非常識との融合」なのかな,と思うのです。

 

 本著では,経済活動に関するしかけには一切触れられていませんが,「しかけの有効性」については経済活動にも当然応用ができるはず。そこで「しかけ」を考えていく際重要になるのは,複数の立場からの視点なのかな,と思います。つまり,常識的な視点とある意味では常識を外れた視点の融合。具体的に言えば,経験を積んだベテランと若手の発想の組合せ,あるいはその業界のベテランと異業種のベテランとの発想の組合せ。

 

 「しかけを生むためのしかけ」も必要になるのかな,と思うわけです。


20181116

「仕掛学」 松村 真宏 著 ~第2回~

 

<概要>

 問題解決のための手段として汎用的に利用できる「仕掛け」の基本と事例

 

1) 仕掛けの基本

 仕掛けの基本は,頭ではわかっていても行動に移せない場合に,行動の選択肢を増やすことである。いわば,正論が効かない時の処方箋と言える。だから,「得られる効果」と「そのための負担」とのバランスが重要になる。

 

2) 仕掛けの構造

 仕掛けは,物理的なトリガーと心理的なトリガーの2つに大別され,それぞれがさらにフィードバックとフィードフォワード,個人的文脈と社会的文脈とに分けられる。物理的なトリガーにより,心理的なトリガーが生まれるという関係。つまり,物理的な仕掛けが何らかの心理に働きかける,ということ。

 フィードバックとは,人の五感に訴える物理的なトリガーのこと。フィードフォワードは,モノの類似性に着目する手法であるアナロジーと,見ただけで使い方がわかるアフォーダンスにより行動を促す物理的トリガーである

 個人的文脈とは,学習動機づけ理論で言う充実・訓練・実用・関係・自尊・報酬に相当する心理的なトリガーであり,社会的文脈とは,見られている感,社会規範感,マズローの社会的欲求に相当する心理的なトリガーのことだ。

 

 

<ひと言コメント>

 本質に近づくには,一度は分解が必要

 

 あるものごとの本質に近づこうとするとき,よく観察することが大切,と言われます。たとえば,昆虫記で有名なファーブルなどは,この観察の天才であった,と言えるのではないでしょうか。思うのですが,よくよく観察もせずに使っているものはたくさんあります。今,PCの横にノック式のボールペンがあるのですが,「書きやすさ」は気にしても,形状など,ほとんど気にもせず使い始めるし,使っている。。。

 

 一方で,外から観察したとしても,これでノック式のボールペンのすべてがわかったわけではありません。分解して,何で構成されているのか,知る必要がある。

 

 消費者の側にいるとき,観察したり,分解したりといった行動をする必要はないのかもしれません。消費者の側は「便利に使えればよい」わけです。一方で,生産者の側に立った場合,観察することや分解することは,絶対に必要になる過程ではないか,と思います。

 

 ただし,分解したら終わりにならないのもまた事実。それを組み上げ,消費者の視点に立ったモノやサービスにしないと,消費者が行動を起こすことはない,と考えられるからです。ということは,観察しないのは素人,分解しないのも素人,消費者視点でモノを見ないのも素人,ということになる。

 

 これと同じことが,しかけをする側にも求められているのかな,と思います。


20181109

「仕掛学」 松村 真宏 著 ~第1回~

 

<概要>

 問題解決のための手段として汎用的に利用できる「仕掛け」の基本と事例

 

1) ついしたくなるのには理由がある=仕掛けがある

 見えているのに見ていない,聞こえているのに聞こえていない,ということは非常に多い。人に気づいてもらえるようにするためには,仕掛けが必要。つまり,仕掛けのデザイン化だ。

 

2) 問題を解決するには行動が必要。行動を起こさせるには仕掛けが必要

 直面する多くの課題は,自分自身の行動が引き起こしている。ということは,自身の行動を変えれば,課題は解決する。しかし,頭ではわかっていても,目先の欲求に勝てない。つまり,「ついしたくなるように」間接的に伝えることを通じて,結果的に問題解決することを狙うのが,仕掛けによるアプローチである

 

 

<ひと言コメント>

 人の本性は自分中心

 

 人の本性というのは,どんなに素晴らしいとされている方であっても,「自分中心だ」と私は思います。たとえば私は黒いPCを使ってこの原稿を作っていますが,別のPCを使うとどうも「いつもと違う感覚」を持ちます。しかしこのような違和感は,他の方も同じように持つモノではないはずです。

 つまり,「同じもの」であっても,その受け取り方は私と他の方とでは異なるということになります。

 

 このように自分がこれまでに経験してきたこと,あるいは,身体的,精神的,文化的,地理的などの背景の上に自分が存在している以上,「どこまで行ったとしても,自分中心でしかモノを見られない,理解できないということになるはずだ」と思うのです。「自分を基準にしたモノの見方しかできない」という意味で,「人の本性は自分中心だ」ということです。

 

 

 そして,誘惑や欲望に弱いというのも人の性かもしれません。その昔,私の上司が「性弱説」という言葉を使われていましたが,正にそのこと。理性的に判断すれば,つまり頭では「こうした方が良い」ということはわかっていても,目先の欲求になかなか勝てない。しかし,そのバランスは,つまり欲望と理性のバランスは人それぞれですから,やはり「自分中心なのだ」と思うのです。

 

 

 そんな「自分中心」のヒトに,「行動を変えさせる」方法には,いくつかのアプローチがあると思います。その一つは,完全個別対応。つきっきりで,「手取り足取り覚えさせる」ことに始まる守破離の過程を踏んでいく,という方法です。そして,別のアプローチが「しかけ」なのではないか,と思うのです。

 

 ここで押さえておくべきは,人の本性は自分中心である,ということ。「手取り足取り」にしても,教える側が学んだ方法で,同じように行動できるわけではないですし,同じように「しかけ」にしても,みんなが同じように「したいと思うか」は別問題になる,ということ。と考えると,確度を上げる施策を併せて行うことが重要ということになるのだと思うのです。


20181102

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 伊藤 亜紗 著 ~最終回~

 

<概要>

 目の見えない方を基準にした世界の「見え方=意味」

 

1) 感覚の思考法への影響

 感覚には「視覚>聴覚>嗅覚・味覚・触覚」のヒエラルキーがある。これは接触>非接触が関係するだろう。

 位の高い視覚の特徴は,三次元のものを二次元的に変換して記憶させること。つまり「見える人」はモノを二次元的に理解している。一方,「見えない人」はモノの定義どおりにイメージする。これは,思考法に影響する。見えない人は裏表,内外も関係ない,つまり,ヒエラルキーがないのだ。なお,視覚障害のある方の点字識字率12.6%に過ぎず,また,視覚に障害がある方触覚に優れているわけでもない。

 見えないことは運動にも影響を与える。「安全であること」を重視するのだ。だからノイズを消すのではなく,ノイズを活かす発想になる。

 

2) 言葉によるコミュニケーションにおける「意味」の重要性

 目の見えない人も,絵画を楽しめる。その方法の一つが,ソーシャル・ビューとも呼ばれる,対話を通じた絵画鑑賞法だ。見える人が見えない人に,見ているものが何か,感じたことは何か,連想したことは何か,といったことを次々言葉にしていくことを始点に対話をすることが重視される。

 ここでは客観的な情報よりも,その人が受け取った意味が重要。その意味で,不自由な環境を物理的に変えようと努力よりも,意味を変えることに努力することが重要と言える。

 

 

<ひと言コメント>

 しかけ次第で変わる可能性

 

 ビジネスの場では,「一階層上の立場で仕事をとらえろ」という鉄則めいたものがあります。しかし,これにはいくつかのとらえ方,つまり意味があるように思います。それはたとえば,言われたことだけやるなという意味だったり,上司をヨイショできるものを持って行けという意味だったり・・・。表面的な表現以上に「意味」の方が大切であり,その意味は解釈の問題でもあるのだから,変えようと思えば変えられるはず,と思います。

 

 だとすると,しかけ次第で,つまり,誘導の仕方次第で,一見マイナスに見えるモノもプラスにできるということになるはず。これは考えだけではなく行動にも通じるのではないかと思います。

 

 もちろんなかなか変えるのは難しい。それでも,「ついこれをやりたくなる」「ついこれをやらざるをえなくなる」しかけを少しずつでも加えることで,人の行動が変わり,人の考え方にも影響を与えていくのではないか。もちろん,それなりの時間は必要でしょうけれど。。。


20181026

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 伊藤 亜紗 著 ~第1回~

 

<概要>

 目の見えない方を基準にした世界の「見え方=意味」

 

1)視覚に障害があること,は,目隠しをしても理解できない

 私たちは五感から情報を得て生きている。中でも視覚は外界から得る情報の8~9割が視覚に由来。目が見えない方は,この情報がないということ。つまり,目が見えない,ということは,別の基準で世界を「見ている」。

 目隠しをしても,先天的に目が見えない方の世界の見方を知ることはできない。見た経験がない方は,映像的なイメージを持つことがないと考えられるからだ。

 

2) その「見方」を通じた世界の「意味」に優劣はない

 ユクスキュルが主張する環世界の考え方を取れば,主体となる人それぞれにとって,世界の見方には違いがあり,その「意味」も異なる。しかし,そこには「優劣」はない。見える方が見えない方に対してとる態度は,情報ベースになりがちであるし,福祉的な態度だけでは上下関係になりがちであることを自覚することが重要。

 

 

<ひと言コメント>

 「理解」の4つのステップ

 

 先週まで,「生物から見た世界」をご紹介してきました。ここで語られていたことは,「同じ世界なのに,生物の種類によって,その見え方やその生物にとって世界で起こることの意味は異なる」というもの。実はこのことは,同じ種である人の間でも起きているということを,視覚に障害がある方とない方との関係から示しているのが本著です(と,私は理解したのですが・・・)。

 

 本も含め,あらゆる情報というものを理解するというとき,いくつかの視点,いくつかの段階があると思います。

 

 そもそもその本の中で示されていることを理解する,ということは第一段階の理解でしょう。事実としての受け止めの段階と言い換えられるかもしれません。

 しかし,それだけで「その本が主張していることを理解していることになるのか?」と言われると,そうではない。そこで示されていることと同じようなことが,「自分の身のまわりでも起きている可能性がある」,つまり,自分の経験との置き換えにあたるようなものが2つ目の段階での理解だと思います。

 さらに,「同じようなことが,自分の知らない世界でも起きているのではないか?」と考え,それを見つけようとする,あるいは見つけられるようになるのが3つ目の段階。

 4つ目の段階は,3つの段階をくり返し,自分の態度に影響を与えていく段階。

 

 この4つのステップというのは,学習素材で言い換えれば,基礎,適用・応用,発展,研究にあたるかもしれません。

 

 他者に「理解の度合いを確認する場面」は,たくさんあるのではないでしょうか? そして,「わかった」と答えるのに,「全然わかってない」という経験を持たれている方も多いのでは? このようなときは,「<わかる,理解するとはどういうことなのか?>のコンセンサス自体が取れていない」可能性がある。そのように,この文を書きながら私自身が考えています(苦笑)。


20181019

「生物から見た世界」 ユクスキュル/クリサート 著 ~最終回~

 

<概要>

 「世界は,人間を主体としたモノの見方だけでなく,それぞれの生物が主体となった見方がある」とするモノの見方観

 

1)生物は,必ずしも目的に沿った行動をしない

 「最短距離で獲物を獲得するルートができても,そのルートは選択せず,馴染みのルートで獲物を獲得する」というような行動が見られる。つまり,目的優先の行動をするわけではないということ。いわば,自然の設計とも言えるような方法を優先する場合があり,人間の考え方とは異なる面がある。

 

2) 2種類のトーンの存在と,主体としての見方の重要性

 主体の目的や状態に合わせた受け取り方により,知覚したものに意味が与えられることになる。これを主体の持つ作用トーンと呼ぶとすれば,主体にとって不明のものを知覚し判断するための探索トーンとも言うべき機能もある。この2つのトーンは,主体によって異なるのだから,客体側の視点でモノを見ても,ナゼそのような行動をするのか?は理解できない。

 

 

<ひと言コメント>

 モノには順序がある

 

 基礎工事をしていないところに建物を作った所で,何かあればすぐに崩壊してしまうこと,は,多くの方がご存知のことだと思います。建物をつくってから,基礎工事をすることはできない。つまり,順序がある,ということ。順序を間違えば,やり直しが必要になります。

 

 世の中さまざまな課題があるわけで,それに対処することが必要になるわけですが,結果を急ぐと見栄えを優先しがち。「目に見えることのインパクト」はやはり大きいですし,見えるモノの力は大きいと思います。表面上見えることで物事を判断するのは,人間である以上仕方がない。だから,建物を建てたがる。

 一方で,土台づくりに重きを置きがちな人もいる。私はそちらのタイプなのですが,でも,土台をしっかりさせたところで,その上に建物を立てないと,いつまで経っても成果は見えない。

 

 冷静にみればいずれも極端ではダメ。そう考えると,一部の土台を活かしつつ,その上に一部のモノを建てていくことが大切になる,ということになります。

 

 だとすれば,本当に重要なことは「全体像をイメージしておくこと」ではないかと思うのです。完成図のイメージというよりは,全体の方向性とでも言うようなもの。本著の指摘によれば,目的優先の行動をできるのは人間だけ,とのことですが,まさに,目的を考えるということです。

 

 目的を考えて行動するということを,どれだけできているか? そもそも目的は何だったのか? 「それを考えていけること」が,実は土台なのではないかと思います。

 

 土台作りの最もベーシックな方法の一つは,自分の人生の目的を考えることだと思います。そのときの具体的な方法の一つが,「死ぬとき,どう思っていたいか」ということ。その答えが例えば「幸せだったと思いたい」だとしたら,「幸せって何? を定義」していくことになる。その答えは,変わっていくこともあるのかもしれません。それでも,「考えていける,という土台」ができていれば,何とでもなるのではないかな,とも思うのです。


20181012

「生物から見た世界」 ユクスキュル/クリサート 著 ~第1回~

 

<概要>

 「世界は,人間を主体としたモノの見方だけでなく,それぞれの生物が主体となった見方がある」とするモノの見方観

 

1)それぞれの生物が主体となった世界の見方 ~ 環世界というものの概念

 すべての生物は,客体からの刺激に対して主体として知覚し,その客体に対して何らかの行動を起こす。つまり,客体と主体との間で刺激と反応のサイクルが回っているということ。このサイクルが,その主体となった生物にとっての環世界であり,その生物のモノの見方・感じ方である。

 

2) 動物の世界にある3つの空間

 動物の世界には,その主体ごと,つまり,動物種別ごとに作用空間・触空間・視空間の3つの空間がある。と同時に,各空間について,主体同士には知覚的・空間的な結びつきがある。ただし,そのとらえ方は主体ごとに異なるのだから,空間も時間も絶対的なものとは言えない。

 

 

<ひと言コメント>

 自分中心であることの自覚

 

 地球には,本当に数多くの生物が暮らしています。確認されている生物の種類だけで約175万種。正直,その数がわかったところで,実感できるような数でもないというのが正直なところではないか,と思います。ユクスキュルの指摘を借りれば,それだけの種類の「環世界」が存在する,ということでもあるので,それを一つひとつひも解くなどということは,まるで現実的な話ではないのかもしれません。2者の関係だけでも,175万×175万の組合せがあるのですから・・・。しかもそれは,生物に限った話。無機物にまで対象を拡大したら,一体どれだけあるんだろう???(苦笑)

 

 そう考えることではじめて,「それぞれの視点でとらえる」ということの「大変さ」が実感できるとも言えるかもしれません。そして,改めて,自分中心で世界を見ているということを自覚できる。

 

 私たちは 「●●のためにやっている」「△△の立場に立ってものを考える」というような言葉を使いがちですし,誰かの意見や気持ちなどを聞いて「それ,わかるなあ」などというようなことも言いがちですが,自分中心でモノを見ている,とらえている,という自覚なし,その本当に意味するところはわからない,近づけないのではないか,と思うのです。同じ言葉であったとしても,理解のレベルというか,腹落ちのレベルというか,が違う。

 

 自分中心であることに自覚的になること,そして,自分中心であることを真摯に受け止め,その自覚や受け止めのレベルを高めることが,他者の視点に立った思考や行動のレベルを高めることにもつながるのではないか,と思います。何だか逆説的な話というか,輪廻転生的な話ですが・・・。


20180928

「教育幻想」 菅野 仁 著 ~第1回~

 

<概要>

 教育や学校をめぐる問題の,親と子・先生と生徒などの「上下関係」という「非対称な関係」からのとらえなおし。時代にフィットした親密性と信頼感に基づいたタテの関係をつくることの可能性

 

1)人間関係は,「ヒト」と「コト」とを分けて考えるべき

 人間関係は,「ルール関係」と「フィーリング共有関係」の2つに分けられる。対応するものが「事柄志向」と「人柄志向」だ。ある事象を評価するとき,2つの視点での評価ができるということ。たとえば「いじめ」という事象が発生したとき,その「事実」を評価することと,いじめをした「その子の人格」を評価することは,別のことである。しかし,これを混同して指導しがちなのが,現状の家庭教育であり,学校教育だ。

 

2)学校は,社会に適応するための能力を育てる場

 そもそも学校は,「すばらしい人間を育てる場=人間の資質や個性を伸ばす場」として生まれたのではない。「社会に適応できる人間」「社会に有用な人間」を育てる場として生まれた。よって,その中核は,「時間」と「規律」ということになり,それは「欲望の統御の作法」ということだ。それができないと,本人が一番困ることになる。

 ルーティンを学ぶことが大切であり,たとえば「理解するとは何か」を「座学=型」により学ぶことが大切になる。それは,「頭で理解し,自分の体験にひきつけ,自分ならどうか,というステップを踏む必要がある」ということを,いつでも同じようにできるようになる,ということだ。 

 

 

<ひと言コメント>

 いったん分けて考える

 

 本書の著者は,「世界一受けたい授業」でも紹介された「友だち幻想」の著者。同書では,友だちという「ヨコの関係」にスポットを当てているのに対し,本書では「タテの関係」にスポットが当てられています。

 本書が指摘するのは,ひと言で言うなら「罪を憎んで人を憎まず,を実現する」ということかな,と思います。その上で,罪は罪,つまり,事実として受け止め,その事実を元に指導する,ということ。そして,その前提となるのは「何を罪とするか?」ということになるのだから,最低限のルールを指導することが,まずは大切になるのだ,ということです。

 

 事実を人柄とを混同するな,ということは,「測定」と「評価」との考えればわかりやすい面があります。たとえばテストなどの点数である測定の結果は事実,それをどう評価するのかは,「どうしたらその人の成長につなげるのか?」という視点から行われるもの。だから,同じ点数であっても,評価は異なる。

 

 著者が指摘する通り,いったんは分けて考えた方が確かに整理がしやすいと思います。現実社会でも,さまざまな要因が絡み合った「問題」が起きるわけですが,それを分けて考える。その一つの視点として有効なのは,これも本書が指摘する「事」と「人」であるとも思います。このような「分け方」,「分けるための視点」を沢山もち,効果的な分け方を身につけることもまた,必要になるのだろうと思います。


20181005

「教育幻想」 菅野 仁 著 ~最終回~

 

<概要>

 教育や学校をめぐる問題の,親と子・先生と生徒などの「上下関係」という「非対称な関係」からのとらえなおし。時代にフィットした親密性と信頼感に基づいたタテの関係をつくることの可能性

 

1)ルール感覚の育成が先決,自由と規律を二者択一にしない

 学校教育には,「共通基盤領域」と,個々の先生による「プロデュース領域」とがある。指導にあたっては,「何を身につけさせるのか」「何を重視するのか」といった共通基盤領域の問題があったうえで,日々起こる課題について,「事柄志向」でとらえたり,「人柄志向」でとらえたり,というプロデュースをしていくことになる。共通基盤領域で最も重要なのは,「行いの教育=ルールの教育」だ。

 ここで言うルールとは,ミニマムリクワイアメントであり,それを学ぶ中で,「これ以上何かをやると自由が制限される」ということを,感覚として身につけさせることが重要だ。その際,プラトンの言葉に即せば,「美・善・真」=「美しいこと(=心地よいこと)は,善いことだと学び,それを正義として感覚的に身につけていく」という段階を踏むのが妥当である。

 

2)しつけは子どもの将来のためのもの

 現実社会は競争社会だ。誰もが横並びということはない。「差異がある」「各領域では序列がある」ことを知らないで育てば,さまざまな問題に「のちのち」直面することになる。俗にいう「小一問題」や「中一ギャップ」などが起きてしまう原因はそこにある。

 自由とは,責任・義務を伴うものだ。責任・義務を負えるようになるための準備が必要。また,何もない中で「自由にやれ」と言われても,モデルすらなければ途方に暮れてしまう。つまり,大人になるまでの助走期間でしつけをするのは,親の役割であり,子どもの将来のために行うものだ。

 

 

<ひと言コメント>

 「当たり前」を自分の言葉に

 

 私は教育コンサルタントとして活動しているのですが,並行して,障害者や高齢者に関する執筆活動をしています。そんな中で思うことの一つに,「当たり前」や「普通」の難しさ,があります。もう少し言うと,「共通言語のフリをしているものが,数多くある」ということ。

 

 たとえば,ビジネスで言えば,「お客様を第一に考えろ!」とは,多くの会社で言われることなのでしょうが,実態が伴っていないケースが多々あります。「<お客様>がエンドユーザーなのか,仕事を出してくれる発注元なのか,混同されているケース」,「<第一>を曲解して,<顧客の言うままに何でもやる>というケース」,「問い合わせや対応依頼などを,<一次受け>で調子の良いことを言いつつ,その後放置するケース」などなど・・・。

 「お客様第一」を「当たり前」と言うのは簡単なのですが,実態を伴う形にしようとするとなかなかハードルが高い。しつけのレベルの話も含めた「教育」が必要になる。社会で起こることは,同じようなことはありつつも,基本は個別の対応になるわけですから,応用できるレベルの力でないと「当たり前」のレベルにならない。

 

 では,どのように教育するか? やはり「行動レベルで徹底することを通じて,体感すること」だと思うのです。ただし,「その行動をするのは,目的が(たとえば)顧客第一だから」といった「意味づけ,関連づけをした上で」であることが重要だと思います。つまり,「自分の言葉で語れることだ」ということ。そうでないと,1:1の対応能力だけを身につけることになりますし,1:1の対応能力が一定程度身につけることで,間違った(?)自己有能感・自己効力感を抱かせる可能性があるから,です。

 

 それがわかっている人が集まる組織なら,オールフラットでも良いのでしょうが,そうでないのなら,やはり「上下関係」のある組織であることが必要になる。結局は,人も組織も,万能型のものはない,ということではないかと思います。


20180921

「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」 新井 紀子 著 ~最終回~

 

<概要>

 東大合格を目指すAI開発を通じてわかったAIができること,できないこと,そして,人間に求められる力

 

1)AIと同じように正解を出している?

 「多くの人は,AIと同じように問題を解いているのではないか?」との仮説の下,「係り受け」「照応」「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の6分野で構成される「選択式の読解力テスト」を独自開発。前半分野ほどAIの正答率が高く,後半ほどAIには難しい分野の問題だ。中高生中心に受験してもらったところ,特に後半分野の問題で,あて推量で解ける程度の正答率にしかならない問題が多くあった。つまり多くの人が,「読解して問題を解いているわけではないのでは?」との仮説が強化される結果となった。

 

2)AIで代替えできる力を養成してきた教育

 これまでの教育は,AIで代替え可能な力=統計・確率型アプローチで正解にたどり着く力を育成してきたのではないか? この領域はAIが強い。よってAIに置き換えられることになる。人に必要な力は,マニュアル・仕様書など,さまざまな形の情報を意味理解できる力。「AIにできない」高度な仕事ができない人には仕事がなくなるからだ。

 最悪のシナリオは,新たな商品・サービスが開発されるなどしてAIにできない高度な仕事が生まれるが,対応できる担い手が不足し,結果,成長につながらない,というものだ。

 

 

 

<ひと言コメント>

 自分の言葉で語る

 

 私がコンサルタントや教育の仕事をさせていただく際は,「自分の言葉で語っていただくこと」を大切にしています。もちろん,コンサルタントの仕事では「提案内容に責任を持った上で」案をさせていただきます。しかしそれ以上に,「ナゼ,その提案なのか?」をご理解いただくことを重視しているのです。必然的に,長い時間,直接対話もさせていただくようなコンサルティングの方法になります。

 

 正直に言えば,「これをやってください」「あれをやってください」と,タスクを並び立て,プロジェクトとしてマネジメントした方がラクです。「できないのはそちらの責任,そちらの事情」という切り分けができるからです。また一時的に成果が出たように見せることも,それほど難しいことではない。しかし,そんなことをしたところで,応急処置のようなものにしかなりません。本来の目的,つまり,その組織や,組織を構成する方々が,自立して活動をしていけるようにはならない。それでは意味がないと思うのです。

 

 身を削り,成果が出るまでそれなりの時間もかかり,少なくとも短期的にはお得な話でもないのですが,それが私のコンサルティングの特徴であったりもするので・・・(笑)。

 

 コンサルティング活動の中で,何らかの行動を,ご依頼主ではなく,実務を行う現場の方にお願いすると,既にされているタスクのやり方を変えているだけのものでも,「やることが増えた」「できない」と言われる機会が多くあります。「ナゼかな?」と思ってよくよくうかがうと,すべて1:1の指示として受け取られている方が多いことがわかります。

 

 たとえば,ほとんどの方が,生産性も,PDCAも言葉では知っています。それでも「生産性を上げるPDCAをまわすために,まずは業務フローを可視化する」などということは,それだけで意味を理解される方は少ない。また,説明しても心底は理解ができない場合が多いようです。

 このことは,本書が指摘することともつながるもの,と,私は思います。だから,自分の言葉で語っていただくことを大切にする。「まわりくどいか」とも思ってはいるのですが,端折ってよいことになったためしがないのも事実なのです。

 

 教育は,なかなかすぐに効果が出るものではありません。しかし,教育しない限り,状況が改善することはありません。やはり,強い意志と我慢が必要,と思います。


20180914

「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」 新井 紀子 著 ~第3回~

 

<概要>

 東大合格を目指すAI開発を通じてわかったAIができること,できないこと,そして,人間に求められる力

 

1)AIは,統計と確率を駆使して正解に近づく

 AIは,意味を理解しているわけではない。正解へは統計と確率からのアプローチをとる。「この○○は何か?」と質問する形式のファクトノイドと呼ばれるタイプの問題であれば,このアプローチで正解を導くことが可能。一方で,理由や方法を問う問題は,このアプローチでは解けない。

 

2)GAFA型企業とモノづくり型企業のニーズの違い

 グーグルなどの企業は,大量の不適切な内容の削除に追われている。これが,現状型AIが発展した理由。人手でこれを解決するのは労力・コストの面からも非現実的だからだ。しかし,不適切なものをすべてが削除できるわけではないことを考えれば,完璧とは言えないものでもある。

 一方,モノづくりの場合,統計・確率に基づく判断では,重大事故を起こした場合に問われる賠償責任に対応できない。

 このようなアプローチの違いが,日本と欧米とのAIに対する認識の違いを生んでいる面もある。

 

 

<ひと言コメント>

 強い意志と我慢の必要性

 

 コンサルティングや教育に関わり,多くの方とお話しをさせていただく中で思うことの一つに,さまざまなニーズがありつつも,その本質は「生産性」という言葉に集約できるという点です。ただ,「生産性とは何か?」を自分の言葉,あるいは,自分の経験や行動に落として話せる方は非常に少ない,という現実があります。

 

 「生産性を上げる」ということに,反対される方は誰もいません。誰もが「生産性を上げたい」と言われます。そこで,具体策として「これをやりましょう」というご提案をさせていただくのですが,感覚的に良さそうであることはわかっても,それがナゼ良いのか,ご自身では表現ができない。結果,そのご提案を次第に指示として受け止めるようなり,「忙しいのに,こんなことまでやらなければならない」といった不満が漏れ始める。。。

 

 実は,「生産性を上げる」ということについて,生産性を式で表現すれば,アウトプット÷インプット,であることすらきちんと理解しないまま,生産性という言葉を使われている方が多くいらっしゃいます。また,式は理解していても,アウトプット=売上・利益,インプット=費用と単に覚えているだけのケースも多くあります。どう少なく見積もっても6割が,いずれかのタイプに該当しそうです。この原因の一つに,本書が指摘するようなAI型の思考,つまり,統計・確率型のアプローチでの思考が巣食っていることにあるように思います。

 

 正直この状態で生産性を上げる活動を,単純に行うのは,かなり厳しい。少なくとも教育をセットで行わないと,それどころか,教育を合わせてやっても,なかなか前に進みません。たいがいの場合,脱落者が出てきます。そして,止めてしまう。諦めてしまう。

 

 でも,ここは乗り越える必要があります。生産性を上げること,上げ続けることが,生き残る唯一の方法だからです。

 

 教育は,なかなかすぐに効果が出るものではありません。しかし,教育しない限り,状況が改善することはありません。やはり,強い意志と我慢が必要,と思います。


20180907

「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」 新井 紀子 著 ~第2回~

 

<概要>

 東大合格を目指すAI開発を通じてわかったAIができること,できないこと,そして,人間に求められる力

 

1)AIによってなくなる仕事,その意味

 「東ロボくん」が示したのは,「AIが,人の中央値・平均値を超えるだけの能力を持てる可能性がある」ということ。それが「正解へたどり着く手法を駆使できる範囲」では,人間以上の能力を発揮するということだ。オックスフォード大学の研究チームが示した今後20年後までになくなる仕事は,そのような視点でピックアップされていると考えられる。その共通点は,事務職,マニュアル化しやすい業務,と言える。

 

2)AIでは,偏差値65は越えられない ~ 数学の限界 = AIの限界

 AIはコンピュータである以上,数学の範囲にいる。一方,「人間の認識」や「認識する事柄」を,数学で説明するには,論理・確率・統計の3つの手段しか利用できない。このように数学に限界がある以上,その範囲にいるAIには,必然的に限界があるということになる。

 よって,ディープラーニングなどを駆使し,いくら1:1の情報をたくさん詰め込んだところで,限界があるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 人の本能や情緒というもの,と,人間が作っているルール

 

 「AIが暴動を起こす」というのは,SFの世界ではよくある話。一方で,そこに出てくるAIは,そのほとんどが感情に近いものを表現しません。「無表情なヒト型アンドロイドが,主人公に迫ってくる」という映画のワンシーンを思い浮かべていただくとわかりやすいのではないでしょうか。

 

 一方で,人には本能や情緒があり,本能や情緒へのアプローチが生活を豊かにしています。たとえば,「魔法の認知症ケア」とも呼ばれるユマニチュードでは,「見る・話す・触れる・立つ」を基本に,いわば感情的なアプローチで認知症の方をケアすることを求めていますが,結果,向精神薬使用4割減,急性期病院搬送6割減を実現したとされています。

 

 

 これが意味するのは,本書で著者が指摘していることと大いに重なり合う面があると思います。つまり,AIというものの限界。

 

 もちろん,本能や情緒というものも,「人間がルールを決めれば,疑似的に」,AIが表現できる可能性はあるでしょう。つまり,誰かが「こうあるべき」というルールを決めてしまう,ということです。

 問題は,自然の摂理に基づくものではなく,「人間が作ったルールというものは,基本的には恣意的だ」ということです。誰かの都合の良いように作られている。このことは,一世を風靡したとも言えるマイケル・サンデル氏の<これからの「正義」の話をしよう>をご一読いただいても明らかでしょう。

 

 ということは,ルール自体に疑問を投げかけられるようになることも必要ですし,そのルールを変えられるだけの力をつけることも重要になると言えるわけです。「言われたことをやっていればいい」というわけには,この世の中いかない,ということです。


20180831

「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」 新井 紀子 著 ~第1回~

 

<概要>

 東大合格を目指すAI開発を通じてわかったAIができること,できないこと,そして,人間に求められる力

 

1)「真のAI」は存在しない

 今,世間一般が「AI」と表現しているものは,「AI実現のための技術」にすぎない。真の意味での「AI」とは,人間の知的活動を,コンピュータの四則演算で表現しきるか,表現できていると人間が感じる程度にまで発展させられたものだ。

 この真の意味での「AI」は,現時点ではどこにも存在していない。人間の知的活動を数学で表現しきれていないからだ。そう考えれば,真の意味での「AI」が生まれることはなく,シンギュラリティが訪れることもない。

 

2)「東ロボくん」はMARCHレベルの大学を合格できるレベルの能力はある

 とはいえ,AIが東大合格できるかを見極めるプロジェクトで開発されたAI,通称「東ロボくん」は,MARCHレベルの大学に合格するレベルの能力は持っている。

 「これは何か?」というwhatを問う問題であれば,「検索の手法」で高い確率で正解にたどりつくことができるからだ。一方で,howやwhyという問題では正解にたどりつくことはできない。それが今の限界,ということだ。

 

 

<ひと言コメント>

 相手を知るために,知るための規準をつくる

 

 時代が変われば,技術も変わっていきます。ほぼ毎日,新聞紙面を飾っているという事実を見ても,「AI」は,まさに今の時代の技術。AIをどう使うかが,企業の生き残りにとどまらず,国の,そして,人の「社会での生き残り」に影響を及ぼすと言えるでしょう。

 

 とはいえ,実際のところAIに,今何ができて,何ができないのか? よく知っている,という方は,意外に少ないのではないでしょうか? 

 かく言う私も,「AIって,要は何なのよ?」と質問されたとしたら,端的に答えることは正直できそうにありません。報道などに「これはAIとは言わんだろう」と思うものが相当数あることも含め,「何でもかんでもAIと言っておけばよい」というような風潮があることも一つの要因かもしれません。

 

 本書は,「AIって,要は何なのよ?」という質問に対し,一定程度の答えを提示していると思います。その定義,規準において,「現時点のAIが,どの程度のレベルにあるのかを理解しやすい」ということです。もちろん,社会の認識と比較した場合に,その定義や基準が妥当なのかは別ですが。

 

 ここには,ひとつのヒントがあると思います。それは,「相手を知るには,知るための規準を作ってしまえばいい」ということ。

 「それが何なのか?」を厳密に定義することではなく,それを知ることが目的なのであれば,ある規準を元に評価した方が「理解という結果を得られやすい」ということです。


20180825

「あらゆる小説は模倣である。」 清水 良典 著 ~最終回~

 

<概要>

 パクリではない模倣の肯定とオリジナリティへの疑い

 

1)外部の素材を能動的に取り込むための実践法3 ~引用する

 他著のタイトルをそのまま用いて,まったく別の小説を書く,という方法がある。同様の引用の使い方としては,複数の小説の冒頭の文を組合せ,その間を埋めるストーリーをつくるのも,その方法の一つである。

詩歌の場合,その詩歌を膨らませることは,詩歌のの特性上劣化になってしまう。尊敬の念を示すという意味でも,明確に引用とすべき。

 

2)外部の素材を能動的に取り込むための実践法4 ~「方法」を借りる

 一文だけで構成する小説は,SNSの特性を考えると可能性のあるものである。一方で,句点のない超長文で構成するという方法もあるが,この場合,その一文内で論理性を維持することとの闘いとなる。他にも,「あなた」という二人称で全面を構成する,小説の読者の世界と小説の中の世界がつながっているようなメタフィクション,カードに素材を書き,それをランダムにピックアップしストーリー化するという方法もある

 

 

<ひと言コメント>

 マネにも,さまざまなマネの仕方がある

 

 今回と前回で,本書で取り上げられている小説における「模倣=マネ」の具体的な方法を見てきました。では,その手法をビジネスの世界に置き換えるとどうなるか? と冷静に考えると,次のようになるのではないか,と思います。

 

 

 ◇刺激をもらうとは?:

 異業種の商品やサービスからの刺激で,自業種の商品やサービスを考えること

 

 ◇断片を膨らませるとは?:

 「時代のキーワード」と「ビジネスの不変的なキーワード」とを組み合わせて,自業種の商品・サービスの在り方を考え,不足を補う,余計なものを削ること

 

 ◇引用とは?:

 商品やサービスに,技術をそのまま取り入れること

 

 ◇方法を借りるとは?:

 商品やサービスを生み出すしくみを取り入れること

 

 

 ひょっとすると,「そんなの当たり前ではないか?」と言われるかもしれません。しかし,本書の指摘をビジネスの世界での話に置き換えたこと自体は,少なくとも私にとっては価値があります。だからこそ,本書をご紹介しているし,私の本書からの学びでもあるわけです。

 

 あらゆる本から学びがある,と主張されている方がいます。この主張に,私はある程度同意できます。

 たとえば,自分にとっての当たり前のことがその本の主張だったとしても,で,その本に一定の読者がいることを考えれば,その本の論の展開の仕方や表現方法が,ターゲットにあたる方にとってのわかりやすさととらえることができる。

 

 つまり,そこにマネができるポイントがあるから,成長できるとも思いますし,そのマネの仕方はさまざまあると思うということです。


20180818

「あらゆる小説は模倣である。」 清水 良典 著 ~第2回~

 

<概要>

 パクリではない模倣の肯定とオリジナリティへの疑い

 

1)実践法1 ~刺激をもらい小説を書く

 外国小説,評論,絵画,音楽からの刺激で小説化する。外国小説の場合であれば,舞台を日本に置き換え,省略部分を補う,あるいはそれを会話にする,という方法がある。評論であれば,評論そのものを表す具体例を小説として示す。絵画や音楽なら,そこに示されたものを細部に至るものまで具体化する,あるいは,切り取られた部分以外を加える。

 

2)実践法2 ~断片を膨らませて小説を書く

 歴史的な名言・ことば,他著の冒頭,図版やイラストとして描かれたワンショットのものを使って小説化する。名言であれば,その新たな定義をしたうえで,それを小説にまで拡張する。他著の冒頭からなら,その続きを新たな展開で作る。図版やイラストであれば,絵画や音楽と同様の手法で拡張する

 

 

<ひと言コメント>

 マネとは,成長のための第一歩

 

 マネというとバカにする風潮があるように思います。たとえば,モノマネタレントの方など,苦労されている方も多いとのこと。

 

 しかし,子どもが生まれ,そして言葉を覚え,さまざまなしぐさをするようになり・・・。当たり前のようですが,これは本能的に身についているものがあるものの,マネすることにより獲得していく技術である,と言われています。つまり,成長に「マネすること」は欠かせない,ということ。たとえば数学の問題の解き方ですら,自分ですらすら解いているように見えて,最初は「マネ」だったわけです。

 

 冒頭のモノマネタレントでも,コロッケさんのようになると,モノマネされる側の芸能人のみなさんですら,うれしいと感じられるそう。もちろん,ご自身がモノマネされるほど有名になったことの証という意味でとらえられている部分もあるでしょう。でも,それがコロッケさんでない名も知らない誰かだったら,うれしい場合だけではない。つまり,コロッケさんは,モノマネから始めてはいるものの,オリジナルなエンターテイメントにまで,それを高めているということ。特徴的な部分を強調して見せたり,ダンスなどの要素を加えたりといった手法を加え,エンターテイメント化しているわけです。

 

 これが何を意味するか,を私は大切にしたいと思うのです。

 

 嫌いな人をわざわざマネして,それを土台にしてオリジナルにまで高めるていきたい,とは,私は思いません。やっぱり,好きな人のマネをしてきて,今の自分があると思う。だから,自分が成長できるよう努力するのは,私がマネをしてきた多くの方々へ尊敬の気持ちを表す一つの手段だとも思うのです。


20180811

「あらゆる小説は模倣である。」 清水 良典 著 ~第1回~

 

<概要>

 パクリではない模倣の肯定とオリジナリティへの疑い

 

1)名人による小説執筆=生命体的

 村上春樹でさえ,その小説はある種の先人の模倣の部分がある。寺山修司や澁澤龍彦などの創作方法は,そもそも作者の唯一のオリジナルな個性を純粋に築いていくことを考えておらず,まるでさまざまな作品とどんどん融合し,増殖していくかのようで,生命的だ。ただし,そこには先人へのオマージュが込められている。

 

2)オリジナル至上主義はロマン主義のなれの果て?

 たとえば,一般に知られる芸術家の破天荒なイメージは,ステレオタイプで,実際の小説家を含む芸術家は常識的だ。つまり,『こうあるべき』というロマン主義思想の残滓であり,すでに現実離れしたものと言わざるを得ない。

 そもそもあらゆるストーリーは,世界の神話や昔話がいずれも似たようなものであることを踏まえれば,人類の想像力の枠内にしかない。そして,現実のシミュレーションから出発した小説は,既にナマの現実以上の質・量の小説が世に生み出され,いわばデータベースが構築されている状態だ。だから,100%オリジナルな小説など存在しないのだ。

 1%の違いが生む生命体の差異と同様,そのわずかな差異を作ることがオリジナリティではないか? であれば,データベースにアクセスし,「真似ぶこと=学ぶこと」が重要で,その事実も踏まえてわずかな差異を生み出すことが,小説を書くということではないか

 

 

 

<ひと言コメント>

 自分らしさ = 「終わりのない学び」×「自分の中でのリアリティ」

 

 みなさんは,世の中にどれだけの本があるか,ご存知でしょうか? ある推計によれば,世界には既に1.3億冊もの本があり,また,日本では1年に8万冊の本が出版されている,とのこと。私は仕事柄,相当本を読むのですが,正直,特にビジネス書の場合,多かれ少なかれ同じような内容でもあります。それでも新たな本が生まれるのはナゼで,また,売れるのでしょう?

 

 私は,「ターゲッティング × 切り口の独自性」で売るのだ,と思うのです。もう少しかみ砕くと,世の中にあるものをたくさん先人の知恵や時代の潮流などをインプットして,価値観・意志・リアリティなどを持った「その人」というフィルターを通して,アウトプットをして,売るということ。

 

 ビジネスの場合で言えば,価値観や意志はそろえることになるはず。事業体として,同じものを目指しましょう,というのが組織のお約束事だからです。そう考えると,オリジナリティとは,「その人のリアリティ」ということになるのではないか,と思うのです。どれだけの経験をし,どれだけの感情が積み重なり,いわゆる成果が生み出されたのか。。。

 

 その土台となるのが,座学などを通じた学びであり,学びを通じて,あるいは,学んだことを使って,自分のリアルにしていくことが「自分らしさ」というものなのではないか。だから,「自分らしさ」とは,終わりなく追い求めるものなのではないか,と思うのです。


20180804

「7つの習慣」 スティーブン・R. コヴィー 著 ~最終回~

 

<概要>

 表面的ではない真の成功を手に入れるための7つの習慣

 

1)肉体・精神・知性・社会性と情緒の安定

 3つの私的習慣と,3つの公的習慣は,スパイラルの関係にあり,そこで終わりということはない。つまり,それを作っては壊し,また作っては壊し,をくり返しながら,ステージを上がることになる。それを続けるには,肉体・精神・知性・社会性と情緒の安定という4つ能力を常に磨き養うことが必要になる。肉体改善としての持久力・柔軟性・筋力トレーニングと,精神の改善のための瞑想など,知性の改善にすぐに自分の尺度で評価しない習慣づけのための読書に合計毎日1時間程度は充てたい。また,社会性と情緒の安定のためには,人と接し,出会った方が前向きになれるか,を指標として見ていくことだ。

 

 

 

<ひと言コメント>

 重要度は高いが,緊急度は低いものに時間をつくる

 

 人は誰でも,緊急度が高いものには対応するものです。たとえば,夏休みの宿題。「提出しなければ怒られる」と思えば,そのレベルはともかくとして,取り組むもの,でしょう。もちろん,そこで発揮される「レベルの高さ」は,一つの優秀さの視点かもしれません。

 しかし,もう一つ,優秀さをあらわすものとして,重要度が高いと思ってはいても,緊急度が低いものに取り組むこと自体,や,それを続けることだ,と,本書では指摘されています。それだけ,「重要度は高いが,緊急度が低いものに時間をつくる,つくり続けること」は,多くの人ができないこと,と言えるわけです。肉体・精神・知性・社会性と情緒の安定づくりなどは,その典型かもしれません

 

 この事実に対する本書の指摘は,私は非常に重要だ,と思います。なぜなら,それなら誰もが勝負できるから。そして,他者からの信用を得られる方法でもある,と考えられるから。そして,私はその「続けること」が,仮に「自分が楽しいから」という理由であったとしても構わない,と考えています。むしろ,「楽しいから続ける」方が,理に適う。

 

 ただ,そこで培われた力や能力を「何のために使うか」は,よくよく考えた方が良いとも思うのです。それは,自分のためでもあるけれど,他者のためでもある。7つの習慣は,3つの私的習慣と,3つの公的習慣,そして,この自己鍛錬の習慣とで構成されています。この関係は,スパイラルの関係だ,と。つまり,自分のために始めたものは,他者のためにしているものに昇華させるべき時が来る,か,あるいは,同時並行で起きているか。いずれにしても,それが「自分のためだけ」になったとき,大げさな言い方をすれば,「破滅への道」を歩むことになるのかもしれません。

 


20180727

「7つの習慣」 スティーブン・R. コヴィー 著 ~第5回~

 

<概要>

 表面的ではない真の成功を手に入れるための7つの習慣

 

1)3つの公的習慣その2 ~(相手を)理解する

 WIN-WINの関係を築くためにも,自分を理解してもらう前に,相手を理解することが重要。そのためにも,相手が何をしたいと考えているのか,深く理解することが第一歩である。人は,人の話を聞くと,何かを答えようとする。しかし,答える前に,相手の真意を理解するステップをきっちりと設ける必要がある。人の話を聞くときは,相手の主張をくりかえし,相手の感情を想像することから始めれば,必然的に信頼を得られ,共感できるし,そこで初めて論理化するステージに進める

 

2)3つの公的習慣その3 ~ 相乗効果(をめざす)

 創造的プロセスに踏み出すのには,勇気がいる。その一歩を踏み出すには,高いレベルでの信頼関係が必要であるし,協力関係が必要になる。また,相違点があれば,それこそが学ぶべきもので,協調して行うことの意味でもある

 

 

 

<ひと言コメント>

 本当の意味で,人の話を聞く

 

 人と話をしているとき,自分の頭が整理されていることに気づく瞬間が訪れるときが,私にはあります。自分の話を聞いてもらった時,自分が使った言葉をそのまま使ってもらったり,「それって,こういうこと?」と質問してもらったりする中で,「ここは(自分が言っていることが)おかしいな」と感じたり,「ここは通じていないな」と感じたりすることから,自分の整理につなぐとでも言いますか。整理され過ぎてしまうとつまらない場合もあるのですが,そこにリアリティがある場合,それが論の補強になる。

 

 自分がそうであるなら,恐らく相手も同じでしょう。だから,まずは聞く。なかなか難しいのですが,まずは純粋に,相手の主張がどういうことなのか,をじっくりと,自分の中に落とし込む。評価論の世界で言うなら,まずは測定しなければ,評価のしようがないということでしょうし,

 

 「測定と評価の切り分け」=「聞くことと自分の考えとの照合の切り分け」

 

が必要なのだと思います。

 

 お互いが,お互いの話をじっくりと聞いたとき,創造の世界に踏み出せるのでしょう。確かに,未知のものには不安があります。でも,自分の道を歩くのであれば,創造の世界に一歩足を踏み出す勇気は絶対に必要。そして,お互いが,本気の一歩を踏み出したとき,それは大きな価値の創造の第一歩になるのだ,と思うのです。


20180721

「7つの習慣」 スティーブン・R. コヴィー 著 ~第4回~

 

<概要>

 表面的ではない真の成功を手に入れるための7つの習慣

 

1)3つの公的習慣その1 ~WIN-WINの関係づくり

 何かを実現しようとするとき,その多くは一人ではできない。だから,協力者が必要になる。 ただ,自分のためだけに協力を得ようとしても,協力してくれる人などいない。協力を得る,とは,取引をするということ。つまり,協力をすることでの対価が必要ということ。その対価は決してお金ということではない。

 協力することで対価が得られれば,人は協力をする。協力してもらえることで,自分はやりたいことを実現でき,協力した人はその対価を得られる。それがWIN-WINということだ。

 そして,WIN-WINの関係になれないのであれば,取引をしない,という選択肢があることを理解することが大切だ

 

 

<ひと言コメント>

 協力してもらえる自分であること

 

 誰かに協力を求められたとき,自分が信用する人であれば,何らかの形で協力をしたい,と私は考えます。それが自分ではできないことであるなら,できる誰かを紹介したい。やっぱり,自分が信用する人には成功してもらいたいのです。

 

 では,何が信用をつくるか,と言えば,一緒に何かをしたときの経験であったり,そのリアリティであったりします。

 

 長らくご一緒することがなかった方と,今,仕事でご一緒させていただいています。そうやって仕事ができるのは,その当時まがいなりにも共に成果を出し,そのときの仕事ぶりをお互いに尊敬し合えたから。そして再会して,やはりお互いが信用し合えることを確認できたから,だと私は思っています。

 

 その上で,お互いが求める以上のものを,お互いが出し合えること。本書では「取引」という言葉が用いられていますが,金銭的なもの以上の何かを,今やっていること,これからやることで,互いに得られること,互いに得られそうだと感じられること,が大切になるのではないかと思うのです。それが,「信用を裏切らない」ということだろう,と,私は思います。


20180714

「7つの習慣」 スティーブン・R. コヴィー 著 ~第3回~

 

<概要>

 表面的ではない真の成功を手に入れるための7つの習慣

 

1)3つの私的習慣その2 ~目的の明確化

 何かしようとするとき,人は必ず,頭で考えること,実際に行動すること,の2つの創造をする。目的が明確でないと,この2つの創造がバラバラなものになる。目的になりえるものに,お金・仕事・所有物・遊び・友だち・敵・宗教・自分・家族・・・などなど,さまざま考えられるが,その中心となる原則を置くことが大切

 

2)3つの私的習慣その3 ~優先順位づけし行動する

 人生の目的に沿って優先順位づけするのが基本。すると,重要度×緊急度で行動することになる。そこに,実生活とのバランス,課題に集中する時間的な問題,人間関係との関係などを考慮し,柔軟性を持ちながら優先順位づけし行動していくことになる

 

 

<ひと言コメント>

 人生の目的を果たす訓練

 

 仕事をしていても,「目的は何なんだ?」「優先度が高いのは何か?」というような会話,言葉はよく聞かれるのではないか,と思います。そのような会話,言葉が聞かれるときというのは,あらぬ方向に物事が進んでいるか,停滞しているとき,でしょう。ただそういう時というのは,自分の人生の目的を果たそうとするときの訓練の場にはできるのではないか,と思います。

 

 こうなっていたらいいな,ああなっていたらいいな,とは,誰もが思うもの。それなのに,実際にはそれとはまったく異なる行動をしていることは,結構あるものです。場合によっては,それがほとんどすべてになってしまっている。でも,それが「目的を達成するための準備と考えてしていることである」なら,それは素晴らしいこと,でしょう。

 

 一方で,たとえば,これがないからできない,とか,あれがないからできない,というような態度で臨むのは,考えものでしょう。これらのことは,組織などにいるのであれば,結局やらざるを得なくなるか,他の人に代わりにやっていただき,自分は他にそれ以上の成果を求められることになるだけ。だとしたら,さっさとやるか,こちらの成果を出すからそれはやれない,と,さっさと伝えればいい・・・。

 

 自分のやりたくないことであっても,やらざるをえないことはたくさんあるでしょう。自分のやりたくないことは,何があってもやりたくないというのであれば,自分で仕事をしていくことを選択することだと思います。そのための準備を今のうちにする。「そのための準備だ」と考えられれば,それなりの行動仕方になるものだ,と思うのです。


20180707

「7つの習慣」 スティーブン・R. コヴィー 著 ~第2回~

 

<概要>

 表面的ではない真の成功を手に入れるための7つの習慣

 

1)3つの私的習慣その1 ~主体性

 他者への依存状態から抜け出るためには3つの私的習慣を磨くことが大切。その最初のひとつが主体性を持つことだ。意志を発揮し,自己責任を取るということであり,遺伝や環境のせいなどにしない態度が必要である。

 主体的とは,課題に働きかけることである。いわば,インサイドアウトの発想であるということ。

 自分が主体的となっているかを確認するには,<できない><しなければ>という言葉を発している数をカウントすればわかる。

 

 

 

<ひと言コメント>

 主体的であることは,難しい

 

 7つの習慣は,7つの習慣を身につけることに終わりはなく,それを常に磨き続けることを前提にしている部分があります。たとえば,「自分は主体的だ」と思っている方が,周囲から見ると決して主体的には見えないといったような,ある種の勘違いが起こることがあるのも,「学び続けることでスパイラル状に目指す方向へと向かっていくことになるから」とも言えると思います。

 

 主体性を発揮するというのは,ある意味非常に難しいテーマです。

 自分が主体的に判断していると思っていたことが,実は,他人の意見の受け売りであったりすることもあります。自分は「主体的にやらない選択をした」つもりでも,それが実は「単にやりたくないだけ」で,主体的という「もっともらしい理由」を後からつけているだけ,のこともあります。また,他に選択肢があることに気づかなかったから,それが自分の意志だと勘違いしているだけのことも。

 

 いずれにしても自分の前を守ってくれる人がいるとき,その後ろから「やいのやいの」と言うことと,自分が先頭に立って「やいのやいの」と言うこととは,まったく別の次元の話。それでも,「やいのやいの言える自分」という部分だけを取れば,同じ意味になってしまいます。

 でもねえ・・・スネ夫とジャイアン,大分違いますもんね。同じようにのび太をチクチクやっていても・・・。

 

 本書では,「実際に主体的になると,<できない><しなければ>というような言葉が少なくなる」と言っています。確かにそうだと思います。でも,それは第一歩のように思うのです。

 私は,「主体性がある,あるいは,主体性がないと,今思っている自分を,主体的に疑えることが,本当の主体性があるということではないか?」とも思うのです。ややこしいですね・・・(ただ,これを読まれた方が,「これが主体的ということなのだ!」と使い始めた瞬間,すでに主体的でなくなってしまう気がします・・・うーん。。。まあ,使わないでしょうから良しとしよう)

 

 そして,本当に主体性を発揮できるようになるには,自分で「やりたい」と言ったことを失敗したことがあるか? ということのようにも思うのです。「成功するまで続けるんだから,失敗はない」と言われてしまうと,そういうことを言っているのではなくて・・・。

 そして,その失敗のケツを自分で拭いて,前に進んだかどうか。ケツ拭かない人,多いですからねえ。。。それでも経営のプロなんて名乗っている方もいるし。。。(^-^; 


20180629

「7つの習慣」 スティーブン・R. コヴィー 著 ~第1回~

 

<概要>

 表面的ではない真の成功を手に入れるための7つの習慣

 

1)優秀さ=習慣

 人はそれまでの経験を通じたものの見方をしている。つまりそれが成功に結びつくものの見方であれば成功の確率は高まる,ということ。つまり,ものの見方という習慣を変革すれば,必然的に成功に近づくことになる

 

2)7つの習慣とは,成功への正のスパイラルのこと

 自身の能力の心身・知性・社会性を磨きつつ,①他者への依存状態から,②自立し,③他者との相互依存関係を構築する,というサイクルをまわすための習慣が,7つの習慣である

 

 

<ひと言コメント>

 続けることの大変さ

 

 続ける,ということは,ものすごくパワーのいるものです

 私がメルマガを基本毎日発行するようになって2年以上になり,加えて毎週ふりかえりのテストを出し,WEBでも情報を発信し,毎月イベントも開催し,というのは,やはり相当パワーがかかるものです。本も紹介するので本も読みますし。

 

 ええ,全部一人でやっています。別に見てくれている方が多数いるようなものでも,お金をいただいているようなものでもないですし・・・(^-^;

 このパワーがどれ程のものか実感いただくには,実際にやってみていただくのが一番です。やってみていだいたら,きっと私のことを尊敬してくださるか,コイツバカだなと思われるか,のいずれかだと思います(笑)。

 

 さておき,実際には,初動と3日後,1カ月後,3カ月後,半年後・・・といったようにキツイときが来ます。これはよく言われることかもしれません。でも,意固地になっている部分がないとは言わないですが,私にとっての「習慣」にまでもっていくことはできたのかな,と感じています。

 そして,実はこれが「7つの習慣」からの学びを表現していると言える部分でもあります。こういう形で示すことが,自分を信用いただくことにもつながっているということを自分自身が実感しているので。。。

 


20180623

「さらば白人国家アメリカ」 町山 智浩 著 ~最終回~

 

<概要>

 トランプ大統領誕生前まで,そして今もアメリカで起きていること,現地在住著者が見たアメリカの現実

「6)トランプ大統領(当時大統領候補者)

トランプ大統領誕生の背景に,

中央集権への嫌悪,事実を正確に把握することと生活での関心事が異なるアメリカの等身大の有権者,意地悪で傲慢な資本家というキャラクター設定,サイレント・マジョリティ化していた白人ブルーカラーの共和党支持者の排他性へのアピール,キラーフレーズ,アンドリュー・ジャクソンというポピュリストとして成功した大統領の存在,不動産投資とプロレス興行というショーでの学びなど

がある」

 

<ひと言コメント>

 トランプ大統領からの学び

 

 好き嫌いは別にして,トランプ大統領という方から学べることはたくさんあると思います。特にマーケティングでは,自身の生い立ちやターゲットにした人々の資質や考えなどなど,不動産投資やプロレス興行を通じて「肌感覚」でわかっていることを徹底的に利用していると言えます。ご本人のキャラクター設定自体も「それに合わせて」の戦略でしょう。よって素顔のトランプ氏は,表に出るトランプ氏とは大分異なるかもしれません。 

 

 いずれにしても支持が得られれば,大統領でいることは可能。その実態がどのようなものだったとしても。。。

 

 トランプ氏という方は,恐らく安定を求めるタイプではないでしょう。安定とは,変化が少ないということ。変化が大きい方が,実はチャンスも多い。だから大きな変化が起きるように,市場を動かしている感がある。為替にしても株価にしても大変動しているのは,「話題を提供」し「実際にやる」ことで,トランプ氏が動かしているからと言っても言い過ぎではないと思います。大統領という「権力」を存分に使っている。

 

 ただトランプ氏は,対内でも対外でも,「言う」「本当にやる」を「ひと通り見せ」ました。つまり,「言ったことはやる男」と印象づけた。なのでこれは予想ですが,この後中間選挙が見えてきたところで少し大人しくなるのではないか,と思います。譲歩してやった男を演出するというか。

 

 白人ブルーカラーは,時代の流れの中で「負けて」譲ってきた。

 これからは,「勝って」譲ってやる。

 

 そんな価値観を植えつけられると考えているのではないか,と,期待も込めて思うのです。それぐらいの分別はある方なのではないかな,と。バカじゃない,ですからねえ。。。


20180616

「さらば白人国家アメリカ」 町山 智浩 著 ~第2回~

 

<概要>

 トランプ大統領誕生前まで,そして今もアメリカで起きていること,現地在住著者が見たアメリカの現実

 

「3)自由の国の現実

 アメリカ人の6人に1人が太っているように見えても栄養失調。原因は貧困で,3~4ドルの補助金で食事を賄おうとする安い牛肉・パスタ・コーンフレーク・ポテトチップス・ピザで,野菜が買えない。

 

4)イラン核合意が生まれたのは,IS掃討

 IS掃討を試みたオバマ氏。ISはイスラムでもスンニ派。この呼びかけに応じたのがシーア派国のイランだったという事実。

 

5)マジョリティが変わろうとしているアメリカ

 これまでのアメリカのマジョリティは白人。一方で移民増などの影響も含め,黒人やヒスパニックがその数を逆転しようとしている。アメリカ連邦議会議員が,そして大統領が,各州の利権で選ばれるが,特にブルーカラーの白人の利益代表にならない州が増加することが予想されている。」

  

 

<ひと言コメント>

 アメリカという国を見るたった1つのキーワード = 「州」

 

 アメリカという国はさまざまな視点でとらえることができるわけですが,「州」という視点は,かなり多くのことを物語ると思います。

 

 「州」というものについて,日本の「都道府県」のようなイメージを持っている方も多いようですが,実際には「国」をイメージした方がわかりやすいものです。つまり,EUがアメリカ合衆国で,ドイツやフランスなどのEU構成国がニューヨークやカリフォルニアなの州に相当すると考えた方が実態に近い面がある。アメリカの国是,「E PLURIBUS UNUM(エ・プルビウス・ウヌム)= 多様の中の統一」は,「多様な州がある中での,合衆国という単位での統一」と読み換えた方がわかりやすいのではないか,と思います。

 そんな国だからなのか,各州には強力な自治権があります。合衆国連邦議会というのは「各州の独立を守る立場の議員たちが集まる場」なわけです。

 

 このように見ると,トランプ大統領という方は「州自治の手法,あるいは考え方を国際政治にも使っている」と見えるわけです。トランプ大統領は共和党から出馬した大統領。共和党は,小さな政府,つまり,合衆国連邦の機能を小さなものとし,各州により権限を与えようとする立場。つまり,民主党と比較したとき,国際協調路線ではなく自国都合優先路線なわけですね。「トランプ大統領は変わり者」と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが,そもそもアメリカという国の少なくない方々は,「トランプ大統領が少なくとも演じる方と同じような考え方をする方」ととらえた方が,よほどわかりやすいのです。

 

 もちろんこれは極論です。しかし,その現実は押さえておく必要がある。現実を理解したとき,「これまでのようにアメリカ追従であり続けるのか? これまでと異なるつきあい方をすべきなのか?」という問いを「本気で考える必要があることなのだ」と理解することができるのではないか,と思います。


20180608

「さらば白人国家アメリカ」 町山 智浩 著 ~第1回~

 

<概要>

 トランプ大統領誕生前まで,そして今もアメリカで起きていること,現地在住著者が見たアメリカの現実

 

「1)報道の偏り

 ヘリテージ財団やハドソン研究所は,決して公平な視点で研究し,情報提供しているわけではない。お金を出す大企業などの利益になるような研究をする。これを知ってか知らずか引用すれば,大企業に都合の良い情報が拡散することになる。

 

2)アメリカの政治 = 各州VS連邦政府,連邦最高裁の強大な権力

 そもそもアメリカで銃保持の権利が守られてきたのは,州側に武力で政府に対して抵抗する権利を認めるためのものだった。個人VS個人を想定したものではなかった,ということである。

最高裁判事は9名で終身職,多数決で合憲・違憲の判断を行うのが役割。判事亡くなるか,引退を表明したとき,時の大統領が指名する。つまり,各党利益になるよう任命されるということ。このことが,金権政治を保障するような判断がされたり,一方でアファーマティヴ・アクションのようなものが成立してきた,という背景でもある。」

  

 

<ひと言コメント>

 情報の一側面性という問題

 

 アメリカVS各国の構図が鮮明になっています。米・トランプ大統領にしてみれば,すべてが「取引」であり,自分にとって都合の良い取引になりさえすればいい,それが判断基準となっている,と見ることができるのかなと思います。恐らく多くの場合は,過去との整合性,今その時の利益,将来の利益の3つの関係から,そのバランスを取ろうとすると思うのですが,氏の判断基準は「今その時最善であれば良い」といったように見えます。

 

 このような価値判断が成立するのは,アメリカの現実が背景にあると言えると思います。私たちがよく耳にするアメリカは,アメリカの実態を表しているか? と言われると,実はかなり怪しいものがあると思います。というのも,そのニュース源はワシントンやニューヨークが中心。車なしに生活できないようなある意味広大な田舎であるアメリカの,ほんの一部の都会の情報を元にしている面があると言えるから。

 

 ほとんどの場合,私たちは情報の一側面しか見ていません。その情報は限られており,また,メディアなどを中心に「他者の視点」を通して報じられているもの。それをさらに,自分の認知パターンを通じて取り込んでいます。つまり,ある情報があったなら,自分の中で「検証すること=考えること」を通じて落とし込む作業をしないと,その意味するところが何かはわからない,ということです。

 そして,そのように落とし込もうとする場合ですら,既に何らかのバイアスがかかっているという事実を自覚しておかないと,本当の意味で「他者を理解することにはつながらない」と言えるかもしれないわけです。


20180602

「はじめての森田療法」 北西 憲二 著 ~最終回

 

<概要>

 精神科医・森田正馬が,自分自身を観察対象とした臨床実験を通じて創り出し,その効果が認められるところまで発展させた精神療法「森田療法」の考え方や現在の治療の実際

 

「5)森田療法の<あるがまま>の理解にあたっての12のキーワード(その3)

⑨<生の欲望と死の恐怖>:「こうしたい,これをやりたい」といったあらゆる欲望が<生の欲望>,それに伴う「うまくいかないのでは? 問題が起きるのでは?」といった不安や恐怖などを含む負の感情が<死の恐怖>

⑩<感情と,感情の法則>:喜怒哀楽などの<感情>。それは「時とともに移り変わる」というのが<感情の法則>。それを実感レベルのものとするには,「感情の変化」を経験し,苦あれば楽ありのような「感情の両面」を知り,「苦から経験」し,「苦悩から生じる感情を引き受け,待つ」ことが必要

⑪<気分本位と事実本位>:気分・感情と,行動や事実とを区別し,事実本位で物事をとらえること

⑫<あるがまま>:森田療法の本質」

 

 

 

<ひと言コメント>

 「あるがまま」≠「努力をしない」

 

 「世界に一つだけの花」,アナと雪の女王の主題歌「Let it go」が大ヒットしました。これらの曲の中で歌い上げられているのは,「ありのまま」でした。森田療法で言う「あるがまま」と似たような概念なのかもしれません。しかしこの「あるがまま」「ありのまま」,かなり勘違いされている部分があるのではないか,と思います。

 

 他人や周囲を変えることはできないし,自分のできることを無視して,「こうあるべき」に支配された姿に向けた姿を目指すことには無理がある。しかし,できることが何かを知り,それを増やす(というよりは,能力を開花させてできるようにする)ことは大切。つまり,「ありのまま」「あるがまま」は,今もこれからも,「努力をしなくていいというわけではない」ということだと思うのです。

 このことは,イチロー選手が,「生涯現役選手」でありたいという欲に対して,日々努力をされていること,を思い浮かべると,わかりやすいかもしれません。

 

 人間みな,自分がカワイイですし,自分の都合で解釈するもの。「それが人間というものなのだ」という自覚が重要だ,ということでしょう。事実を事実として受け止め,自然の自分と自分の本当の欲を理解し,今,何の努力をするのか,努力し続けられる工夫として何をするのか。

 

 これが大切なのだ,と思いますし,これこそが本当の評価をする意味なのだ,と私は思います。だから,評価というものは難しい,と思うわけです。


20180526

「はじめての森田療法」 北西 憲二 著 ~その3

 

<概要>

 精神科医・森田正馬が,自分自身を観察対象とした臨床実験を通じて創り出し,その効果が認められるところまで発展させた精神療法「森田療法」の考え方や現在の治療の実際

 

「4)森田療法の<あるがまま>の理解にあたっての12のキーワード(その2)

 ⑤<理想自己/現実の自己>:

 <理想自己>は,他者の視点を意識し過ぎた結果自分の中で作り上げてしまったもの。それが大きくなりすぎ,<現実の自己>を受け入れられなくなるから悩む

 ⑥<とらわれ>:

 神経症を患う方の悩みのメカニズム・悪循環の回路。<こうあるべき>があるから<こうなったらどうしよう>と不安になり,それが<不快な感覚>としてあらわれるとそれを<何とかしなければ>と思い,さらに<こうあるべき>を強化する,ということ

 ⑦<かくあるべしの思想の矛盾>:

 <理想の自己>が<現実の自己>を支配しようとするあり方は,<あるがまま>を受け入れ,今,自分ができることを精一杯行動するという森田療法の思想と矛盾する

 ⑧<はからい>:

 <現実の自分>が生んでいる不安などの感情に対して,何とかしようとはたらきかけること。やればやるほど<とらわれ>の回路にはまる」

 

 

 

<ひと言コメント>

 WANTの条件 = 「(仮の)WANT > MUST」

 

 MUSTとWANTとは,まったく異なる概念です。これは誰もが頭では理解できるでしょう。一方で,「MUSTがWANTをいうお面を被ること」は,本当によく見られる,観察されるもの,です。

 たとえば,「誰かを好きになった。だから好かれたいと思った。好かれるにはどうしたらよいか考えた。好かれる人のイメージをつくり,好かれる自分を演出した。実際につき合ったら,演じる自分に疲れてしまい・・・」

 

 「その人に本当に好かれたい」と思っていて,「現実の自分をわきまえた上で」それを「演じる努力を少しずつでもし続けられる」なら,それはWANTなのでしょう。つまり,「(仮の)WANT > MUST」のとき,それが本当の「WANT」の成立条件の1つなのだろう,ということです。そのためには,必要とされる努力がどれだけ大変なものなのか,実感していることが大切になります。「努力できるよ!」は,机上の空論なのかもしれないからです。

 

 本当の意味での理想の自己づくり,目標設定というモノは,それぐらい「行動と実感」を通じて行った方がよいもので,「自分の内なる声と向き合って行うものだ」ということなのではないか,と思うのです。つまり,さまざまな経験が必要,ということです。この関係は,権利と義務というものの関係と似ているように思います。

 

 とあるテレビ番組で,「寿司屋の修行に10年,は,ナンセンスではないか?」というものが話題になっていたのですが,それは,「行動と実感」の土台の有無次第なのでは? と,私は思います。


20180519

「はじめての森田療法」 北西 憲二 著 ~その2

 

<概要>

 精神科医・森田正馬が,自分自身を観察対象とした臨床実験を通じて創り出し,その効果が認められるところまで発展させた精神療法「森田療法」の考え方や現在の治療の実際

 

「2)森田療法の中心思想 ~ あるがまま

 森田療法の基本的な考え方は<あるがまま(に生きる)>。

 <あるがまま>とは,神経症の不安や恐怖を排除するのではなく<受け入れること>で,不安や恐怖が生まれる悪循環である<とらわれ>から脱出し,人が本来的に持つ自然治癒力などの<生きる力>を最大限に生かし,未来でも過去でもなく<今そのとき>,<できること>をやる,というもの。

 

 3)森田療法の<あるがまま>の理解にあたっての12のキーワード(その1)

①<できること/できないこと>:

 <できること>が疎かになり,<できないこと>に悪戦苦闘しすぎて神経症になる。<できること>に集中することが問題解決の鍵

②<自然に生きる>:

 神経症に伴う極端な感情は,<正常/異常>の枠組みで考えると<異常>だが,<自然/反自然>という枠組みでとらえれば<自然>。<自然な感情>を取り除こうとするのは<反自然>

③<内的自然>:

 無心・夢中なときには,心と体が自然と動くような状態のこと。この状態を「感覚としてつかむこと」が大切。

④<心の流動>:

 人生におけるさまざまな出来事は,さまざまな感情も引き起こす。それが心の流動で,極めて<自然>なことだ」

 

 

 

<ひと言コメント>

 「ちっぽけな自分」という現実を自覚するために行動する

 

 森田療法の基本となる概念は,「あるがまま」です。少し前に流行した「ありのまま」も同じような言葉としてはあるわけですが,いずれにしても,その第一歩は,現実の自分を受け入れること,と言い換えられます。

 

 自然災害に思いをはせればわかるように,人間の力は自然を前に無力です。それが唯一のものか,八百万なのかは別として,どこにでも「神」が存在しているのも同じ理由だと思います。人間全体ですらそうであるとしたら,人間一人ひとりは,本当にちっぽけな存在です。

 

 その事実は,誰もが「頭では」わかっているでしょう。しかし,実感レベルでそれを認識できているのか? どんなものでも力をつけると,他者に影響を与えることになります。そして,その力が高まれば高まるほど,他者への影響力も高まり,その中で自分が本当はちっぽけであるという事実を忘れてしまう・・・。

 

 私の友であり,非常に優秀で,大企業との取引も多い,とある経営コンサルタントの方は,毎年一度は富士山に登るのだそう。それは,「自分はちっぽけな存在なのだ」という実感を得るためなのかな,そのような行動を取り入れることは非常に大切なことなのではないかな,と思います。


20180512

「はじめての森田療法」 北西 憲二 著 ~その1~

 

<概要>

 精神科医・森田正馬が,自分自身を観察対象とした臨床実験を通じて創り出し,その効果が認められるところまで発展させた精神療法「森田療法」の考え方や現在の治療の実際

 

「1)森田療法とは? ~過去と現在

 森田療法は,日本で生まれた精神療法である。明治から昭和初期は西洋化の大変革時代で,精神疾患を患う人々が多くいた。創始者の森田自身が精神疾患に悩まされ,さまざまな方法に取り組んだ結果,症状が劇的に改善されたのは<症状をそのままにしながら,目の前の作業に入り込む>という方法だった。このことを不安に対する対処方法の原則としてまとめたものが森田療法である。

 当時の森田療法は入院型で,患者の訴える症状を直接は取り上げず,日々の生活作業に入り込むことを指導する,というもので,不安や抑うつをありのままに受け入れる態度を身につけようとするもの。不安や抑うつを引き起こす思考の歪みを合理的なものに変え,それをコントロールすることで症状の軽減・消失を目標とする西欧型の治療法とは大きく異なるものである。

 現在は,入院型から対話に基づく外来型への転換がはかられている。」

 

 

 

<ひと言コメント>

 自分の行動に集中する

 

 精神疾患を患う大きな原因の一つに,何らかに対する「不安」があると言われています。今という時代は,明治維新,第二次世界大戦に次ぐ,大きな時代の転換期にあると多くの方が指摘されていますが,それは,自分ではどうすることもできない未来への不安が渦巻く時代,と言い換えることもできると思います。実際,それが原因であるかは別として,精神疾患を患う方は年々上昇傾向にあります。

 

 「不安」への対処法としては,大きくは2つのアプローチが考えられます。一つは「不安の原因」に働きかけるアプローチ。もう一つは,この森田療法で示される,「不安は不安として引き受けて,今,できることに集中して取り組む」というアプローチです。

 

 この森田療法で示されるアプローチは,精神疾患の治療においてだけでなく,物事のとらえ方として非常に重要な指摘だと思います。たとえば,<自分にとっての身のまわりの問題>が,地球の自転によってもたらされるとわかったとした場合,前者のアプローチでは何も解決する方法がなくなってしまいます。その一方で森田療法の視点で考えれば,今自分ができることに集中すればよい,ということになるからです。このような森田療法におけるアプローチは禅の影響を受けているようですが,欧米のエグゼクティブと呼ばれる人々が禅や瞑想などに注目していることと合わせて考えても,その有効性が示唆されると言えそうです。

 

 私も含め,どうも「自分ではどうしようもないこと」を気にしすぎる傾向が現代人にはありそう。目先のことも含め,今自分ができることに集中する,今自分ができることを実際に行動するということが非常に重要なのではないかと思います。


20180505

「不機嫌な職場」 河合 太介/高橋 克徳/永田 稔/渡部 幹 著 ~最終回~

 

<概要>

 日本に蔓延する「一人ひとりが利己的で,断絶的で,冷めた関係しかない,ストレスフルな」職場が生まれた背景・問題点とその解決策

 

「2)組織力を高める信頼関係をつくるには? ~能力×つながり

 信頼には,能力への信頼と意図への信頼がある。前者は「それを行うだけの力があるか?」であり,後者は「出し抜くようなことをしないか?」ということであり,つまり,個人の能力と個人間とのつながりの問題ということになる。この2点を共に満たすとき,信頼関係が生まれ,組織力が高まることになる。

 

3)協力し合う組織を作るには? ~共通目標×インフォーマルな場の有効活用×報酬ではなく感謝や認知

 協力し合う組織を作るには,いくつかのしかけを多角的に行うことが必要になる。その視点は,共通目標と価値観の共有・組織や個人の壁を越えた発言を歓迎すること,組織を構成する人々の相互認知・理解・インフォーマルな場の積極活用,感謝・認知から生まれる内発的動機づけ,の大きくは3点である。」

 

 

 

<ひと言コメント>

 組織と組織,人と人とをつなぐ「翻訳家」

 

 本書では,協力し合う組織を作るには3つの視点が必要だ,と言っています。確かに共通目標を持ち,お互いを認め合い感謝することは大切でしょうし,そのためにインフォーマルな場を有効活用することは考えられるでしょう。でも,それで機能するのか? 本書が指摘する3年待てばよいのか? 私自身はそれでは足りないと思うのです。これまでの間に堆積されてしまっている「負の遺産」がありすぎる。

 

 一つには,組織と組織の間をつなぐ「翻訳家」の存在が必要不可欠になる,と思います。「隣の芝生は青く見える」ではないですが,その逆もしかりで,「隣を批判しあう」環境も生まれていることが想定されるわけですから,であれば,それぞれの良さを冷静に抽出できる人,それを互いに認め合うように仕向けられる専門家が必要になるのではないか,ということです。いわば,「外部の視点」と言えるかもしれません。これは,組織間だけでなく,一人ひとりの間をつなぐという意味でも機能しそうです。

 

 もう一つ重要なのは,「やらないことを決めること」。どんなに優秀な人にも24時間しかありません。どんなにやりたいことがあっても,「やらないこと」を決めないとつかめるはずのものもつかめません。一方で,何かを手放せばつかむことができる。

 では何を辞めるのか? マネージャーとメンバーとが本気で話し合うべきは,その1点であり,それを辞めるための具体的な方法を検討し1つずつでも実際に辞めることなのではないか,と思います。一人の状況について,真剣に辞めることをみんなで考え,策を出し,実際に辞める具体的な行動により準備をし,実際に辞める。「選択と集中」というのはそのように具体的にやるものだ,と思いますし,その活動を複数の組織のメンバーが集まって行うことで,本物の翻訳家を養成することにつながるのではないか,と思います。


20180427

「不機嫌な職場」 河合 太介/高橋 克徳/永田 稔/渡部 幹 著 ~その1~

 

<概要>

 日本に蔓延する「一人ひとりが利己的で,断絶的で,冷めた関係しかない,ストレスフルな」職場が生まれた背景・問題点とその解決策

 

「1)成果主義の下の効率化と仕事の高度化が失わせた信頼関係

 成果主義は,個人の役割と仕事の範囲の明確化をもたらし,また,仕事を高度化させ,その結果,組織間や個人間をつなぐのりしろ・遊びの部分が削られることにつながった。効率化は進展したが,同時に個人のパフォーマンスへの過度なプレッシャーや,閉じられた・自己完結型の職場環境を生み出した。機械のように働くことが常態化する中で,個人は自分の心と体を守るために個人の枠の中に閉じこもるようになり,希薄な関係しかない組織となっていった。

 交換が成立するために必要な信頼関係が醸成されないそのような不機嫌な職場は,フリーライドも生まれ,人が壊れ,創造性を失い,品質問題や不正につながるだけでなく,多様化にも対応できなくなっている」

 

 

 

<ひと言コメント>

 いわゆる西洋かぶれ(?)が生み出した大問題

 

 本書の初版が発行されたのは2008年なのだそうですが,10年後の今,その状況は一部ではさらに深刻化しているように感じます。このような状態になった背景に,器だけの成果主義の導入があったように思います。夏目漱石はその著書「私の個人主義」の「現代日本の開化」の中で,明治時代の西洋化を「上滑りの開化」と強烈に批判していますが,これと同じ構図を思わずにいられません。つまり,「日本という国の特徴」を考えないまま,「しくみだけ」,成果主義を導入した。

 

 アメリカで成果主義が上手くいっているのかを,私は評価することができません。しかし仮に上手くいっているとしたら,ナゼ日本では本著で指摘されるようなことが起きてしまったのか? その原因は2つあるのではないか考えています。

 

 1つ目はアメリカという国に存在するヒエラルキーというもの。下層は作業者層へ,中間層はマネジメント層へ,上層は経営層へとそのままスライドして,各層ごとに対応する仕事に就いている。となると,マネジメント層は一連のプロセスをマネジメントするのであって,個々のプロセスをマネジメントするわけではないはず。マネジメント層は,個別のプロセスの専門家ではないからです。

 だとすると,これは日本における個々に切り刻まれたプロセスをマネジメントすることとは大きな違いがあります。同じ効率化でも,日本では深掘り型の効率化になり,アメリカは一連のプロセスを通した横串型の効率化になるはずだから,です。

 

 2つ目はトヨタのカイゼンに代表される日本の効率化レベルの高さです。このレベルの高さが1つ目の深掘り型の効率化と相まると・・・個々のプロセス間のギャップがどんどん広がることになる。立体が面になり,やがて点のようなプロセスになってしまうのですから,どんどん乖離が生まれるばかり。

 

 つまり,日本の特徴を考慮せず,誤った方向で効率化戦略を進めたことが今の日本を創り出しているのではないかと,私は思うのです。だとすれば,今,日本の組織で本当に求められる人材は,いわゆるジェネラリスト型の人材だ,ということになるはずですが,そこまで単純な話でもないというのが厄介で・・・。


20180420

「無印良品は、仕組みが9割」 松井 忠三 著 ~最終回~

 

<概要>

 一時は「良品計画(=無印良品)は終わった」と言われた時代から復活できたのは,「業務のマニュアル化を中心としたしくみ化を行ったからだ」とする,同社当時社長による成功の方法論

 

「2)マニュアルを土台に組織の生産性を高める ~ 重要なのは,仕事の定義

 良品計画におけるマニュアルとは,永遠に完成形がなく,常に改善し続けるもの。どんな仕事・タスク・作業でも,そこには何らかの意味・意義・価値があり,その価値を顧客に,仕事仲間に,パートナーに提供するのだから,マニュアル化はできる。むしろ,それを定義するのがマニュアル化の目的と言える。どうしたらさらにその仕事の価値を高いレベルで提供できるのか,と考えれば,マニュアルが変更され続けるのは当然。さらに,誰でも読めばわかるマニュアルは,組織のOutputレベルを均質なものにできる。新入社員でも外国人でも関係なく使えるマニュアルが,個人の考える力も,組織の力も引き上げる」

 

 

<ひと言コメント>

 生産性を上げる<しかけ>

 

 生産性を上げる方法はさまざまです。生産性は「生産性=Output÷Input」で表現できるわけですが,Inputを減らす「効率化」というものだけでは早晩限界が来ますし,その弊害も出てきます。つまり,「いかにOutputを高めるか」という点がポイントになると言えるわけです。そのとき,新しいことを生み出すことに注力することも大切かもしれませんが,新しいものは簡単に生まれるわけでもないでしょうし,たとえ生まれても,成功するまで辛抱できるものばかりでもないでしょう。

 

 Outputは,最終的には「収益」というような評価指標に置き換わるわけですが,「収益」を生むのは企業の行うすべての活動であり,顧客に対する価値の提供活動です。とすれば,企業が行うあらゆる活動について,価値を定義し,その価値を体現する行動を実際に取り,そのレベルを上げていければ,結果として収益に結びつくはずだと考えられるわけです。

 

 このように考えていくと,「マニュアルをより良いものに変えていく」という<しかけ>は,見事な<しくみ>であり,行動を起こさせる見事な<しかけ>にもなっている,と思います。「みんなが知恵を出すこと」が自然であり,それは結果に結びつくはずですから。

 

 マニュアルに限らず,こうした<しかけ>づくりに知恵をしぼることが,Outputのレベルを引き上げることにつながる。。。十分な勉強をしたけれど,<しくみ>がうまく使えない,機能しない,ということであれば,「自然と行動に結びつく<しかけ>を徹底して考える」というアプローチが,非常に有効な手段になると言えると思います。

 

 ちなみに,本書は<しかけ>として図解版もありましたが,私は文章版の方が理解しやすかったです。図解版の方は,私の頭の中のイメージと,どうも異なるようで・・・。ひょっとしたら,ちゃんと理解できなかったから?(苦笑)。いやいや,そのように感じさせ考えさせる<しかけ>が本書にはあったのだと思います(爆笑)


20180413

「無印良品は、仕組みが9割」 松井 忠三 著 ~その1~

 

<概要>

 一時は「良品計画(=無印良品)は終わった」と言われた時代から復活できたのは,「業務のマニュアル化を中心としたしくみ化を行ったからだ」とする,同社当時社長による成功の方法論

 

「1)座学の意識改革では絶対うまくいかない ~ 実行が意識変革につながる

 拡大一途から業績が急落するという最悪のタイミングで社長就任した当時,背後にあったのは<このままでいい>という慢心・驕り,親会社ブランド依存と体質,対症療法への終始・・・。多面的な改革を行ったが,その中心となるしくみが,マニュアル化だ。マニュアルはそれを使う人が作るべき。自分が作る,それを終わりなく改善し続ける,というしくみが行動であり,それは必然的に意識改革につながっていく」

 

 

<ひと言コメント>

 しくみ,と,しかけ

 

 とある取引先の経営者の方からご紹介いただいた本です。

 今,成功していると言われる企業と言えば,プラットフォーマー,でしょう。要は,<しくみ>を社会に提供している企業です。しかし同じような<しくみ>は,多くの方が,そして企業が,知っているし,持っているし,提供もしています。たとえば,PDCAなどは,誰もが知っているマネジメントの<しくみ>ですし,導入もしている。問題は,それが機能していない,ということ。。。知っていても,自分や自社内で機能しないのであれば,対顧客で機能するはずもないわけで。

 

 私は,<しくみ>があってもそれが機能しないのは,<しかけ>に問題があるからではないか? と考えています。<しかけ>とは,いわば「行動を自然と促すもの」。

 

 本著者が,「しくみ(本著内では「仕組み」)」をどういう意味で使っているか,は明示はされていませんが,恐らくは「しくみ+しかけ」か,むしろ「しかけ」の意味で用いられているのでしょう。つまり本著は,「成功した<しかけ>の一例」ということであり,マニュアルというものを中心にすえて,それを徹底することができれば<しかけ>にできることをあらわしている,と言えます。

 

 このことは,非常に大きな示唆を含んでいます。

 一つには,マニュアルというどこでも持っている(だろう)ものでも<しかけ>に使えるのだから,突拍子もない何かを持ってこなくても<しかけ>は作れるはずだ,という点。もう一つは,<しかけ>そのもので,自分や自社のオリジナリティ・得意を発揮できる,差別化できる,という点です。そして・・・次のように言うこともできるでしょう。

「共に仕事をする人をよく知ること,その方々に信用してもらえること,信頼関係を築くこと,が,大切だよね? だって,その人たちを知れば知るほど<しかけ>のレベルが上がるもん」


20180406

「残酷すぎる成功法則」 エリック・バーカー 著 ~最終回~

 

<概要>

 世の中で信じられてきた数多くの成功の法則を最新のエビデンスベースで検証し,提示したもの

 

「5)ワークライフバランスをどう保つか?

 その道のプロになるには,1万時間必要。それも,ただやれば良いわけではなく,絶えず向上心を持って,それに取り組むことが必要になる。とすれば,その時間をかけるだけの価値,意義を見出すことが重要。そして,それが楽しいと感じられるなら,その時間は決して苦になるものではない。それは,その領域での成功にも結びつく。

 そのとき,本当に管理すべきは,時間ではなくエネルギーだ。週55時間以上働くと,急速に生産性が低下する。1日8時間の睡眠で,脳をリセットすることが重要になるし,リラックスできる仕事の環境が必要になる。残業とストレスを減らす必要があるということだ。人には24時間しかない。時間をかけられない領域には犠牲が生じる。それを十分理解した上で,何を自分の成功と定義するか,を自分で決めることが大切。その上で,幸福感・達成感・存在意義・育成の4つのポイントを押さえた計画を立て,実行していくことが<自分が定義した成功>につながる。」

 

 

<ひと言コメント>

 自分の成功は自分で定義する

 

 本書の最終回です。

 時代が大きく変わろうとしています。エグゼクティブの代名詞と言われるような医師や弁護士などの仕事も,その多くの部分がAIなどに置き換わる,と言われています。必ずしも人がそれをする必然性がない。つまり,「労働」という領域は,なくなっていく,あるいは少なくなっていくのではないか,と考えられています。だから,ベーシック・インカムという,最低限の経済的な保障はしよう,という発想が出てくるわけですが・・・。

 

 仮に今が,そのような時代(=生活費の保障がされているとき)だ,としたとき,「何をする?」

 

 作業はAIやロボットなどに任せて,より面白い・楽しいと感じられることに時間を使うことになるのでしょう。ただ,スマホのゲームをやりたいとは,私は思わないのです。別にそれはそれで良いと思いますし,まったく否定をしていませんが。でも,私自身は,それをすることが何らかの役立つこと,そして,それをサポートしてもらえること,を,やっぱりやりたい。

 

 と,まあ,そんな個人的な思いはともかくとして,この本はオススメです。翻訳本なので,うまく和訳できていないところや,私の比較的明るい部分で,若干おかしなとらえ方をされている部分もありそうですが。


20180330

「残酷すぎる成功法則」 エリック・バーカー 著 ~その3~

 

<概要>

 世の中で信じられてきた数多くの成功の法則を最新のエビデンスベースで検証し,提示したもの

 

「5)自信は有用か?

自信は諸刃の剣だ。自信はそれが単なる思い込みであったとしても,それが機能するときは正のスパイラルを生み出す。その一方でそれを喪失した瞬間に強力な負のスパイラルを生むことになり,また,自信過剰は取り返しのつかない深刻な事態をもたらしかねない。しかし,人はその道に長ければ長けるほど,知らず知らずのうちに自信過剰になる。その道に長けている分,新しい考えを柔軟に受け入れられず,情報を得ようとしなくなるだけでなく,相手の立場で考えることをしなくなるからだ。

自信と同じ効果が得られるものは,<セルフ・コンパッション=自分を思いやる力=自分を許せること=自分に優しく話しかけ,人間らしい部分を認め,自分の失敗とフラストレーションを認める>だ。セルフ・コンパッションとは,賢明さのあらわれでもある」

 

 

<ひと言コメント>

 今の自分を冷静に見つめる力

 

 本書の第3回です。

 自信を持つことは,日本の教育の中でも重要視されていることの一つです。あることができるようになることで,「やればできる」と自ら思えるようになり,新たな課題に取り組もうとする意欲を持つ,と考えられているからです。一方で,実際にはそのような努力が不十分にも関わらず,「あなたはできる子よ」と育ててしまうと,「自分はやっていないからできないだけで,やればできるんだ」という,誤った自己正当化を行う可能性があることもわかっています。

 

 そのような負の側面を持つ自信の,プラスの面だけを引き出すものに「Self-Compassion(セルフ・コンパッション)=自分に対する思いやり」があるそうです。この言葉は,日本語で表すのは難しいのですが,以下の3つを合わせたものだとか。

 

 Self-Kindness(セルフ・カインドネス)

 =自分自身に温かく優しくすること

 Common humanity(コモン・ヒューマニティ)

 =自分や他人の短所・欠点・間違いを人類共通の特性であると受け入れること

 Mindfulness(マインド・フルネス)

 =出来事を自分の価値基準・感情ではなく,客観的に見ること

 

 確かに自信とは異なる概念です。そして,実際に尊敬できるような方々は,この3つを持ち合わせているように思います。

 私もそんな力を持った人間になりたいな・・・,と,強く思ったのですが・・・,上手い翻訳,できないかな??? 


20180323

「残酷すぎる成功法則」 エリック・バーカー 著 ~その2~

 

<概要>

 世の中で信じられてきた数多くの成功の法則を最新のエビデンスベースで検証し,提示したもの

 

「3)GRITは必要か?

 GRITは必要。やり抜くにはまず,<悪いことは一時的,たまたま,自分の落ち度ではない>と考える<常にポジティブであること>が重要。脳がランダムであることを嫌う性質を利用することでもある。

 また,自分の死について考え<どんな追悼文を読んでもらうか>をイメージすると,人生で演じる役割が明確になる。そのときゲーム性,つまりWNGFの要素を持ち込むことが必要。学びとは,小さな場で試し鉄板ネタを集めるような地道なもので,退屈では続けられないからだ。一方で,撤退要件の事前設定も必要。If~Thenの考え方を含むWOOPの考え方が利用できる。

 

4)人脈づくりは,どのように進めたらよいのか?

 真っ先に口を開くという外向的行動はリーダーに見えるなど,さまざまな利点がある。内向的なら,パートナーを見つければよい。

 抵抗感なく人脈をつくるには,単に友だちになることが大切。元々の友だちを大切にし,コネクターである人を見つける。また,メンター(=モデルになる人,先に経験をしてくれた人,道を作ってくれる人,ゲーム性を用意してくれる人)がいることが重要にもなる。」

 

 

<ひと言コメント>

 自分が歩む道を描き,実際に歩むための力を得るための人間関係づくり

 

 本書の第2回です。

 人に幸せや成功は,自分自身で定義するしかないでしょう。幸せや成功というものは,経済的なもの,人格的なものなど,さまざまな視点があり,それを誰かに決めてもらうわけにもいかないでしょうし,決められたくもないのでは? そう考えると,自分の幸せ・成功像をつくり,そのために努力することが必要になるのだと思います。

 自分が求める幸せ像に対してなのですから,やり抜きたい,それに賭けたい。でも,人間は弱いものであることも事実だから・・・。

 

 幸せや成功を定義することは自分にしかできない一方で,それを実現するためのサポートは得られる,決して孤独ではない,ということは,大切なポイントでしょう。

 ひとつは仲間・味方であり,もうひとつはしくみや考え方も含めた道具という存在です。

 中でも信頼できる仲間や味方は,情報を留意点を付与して提供してくれるでしょうし,さまざまなヒントを提示してくれるでしょう。また,自分を奮い立たせるために有効な道具を与えてくれるものなのではないかとも,私は思います。

 


20180316

「残酷すぎる成功法則」 エリック・バーカー 著 ~その1~

 

<概要>

 世の中で信じられてきた数多くの成功の法則を最新のエビデンスベースで検証し,提示したもの

 

「1)ルールを守ること,言われた通りにやることは,損か得か?

 リーダーには根本的に異なる2つのタイプがいる。いわゆるヒエラルキー社会で勝ち上がって人,と,「特異な能力≒個性」でリーダーになった人。この2つは根本的に異なる。まずは自分の強みを知り,どちらの場が自分に有利な環境であるかを選ぶことが大切だ。

2)いわゆる「いい人」は,成功できるのか? できないのか?

 悪は,短期間で見れば善より強い。悪とまでは言わずとも,自分が欲しいモノをはっきりと述べることは,欲しいモノをつかみ取る確率が高まる。一方で長い期間で見た場合にもっとも成功できるのは信頼関係がある場。その時利用すべきはゲーム理論の考え方だ。」

 

 

<ひと言コメント>

 巷にある「成功法則」をふるいにかける

 ただし,科学的なエビデンスがないと必ず棄却されるわけではない

 

 

 本書は,何回かに分けてご紹介していこうと思います。というのも,このサイトの目的は,知的な読書を通じて,皆さんが人生のヒントを得られるものにしようとするものだからで,「人生の成功」はその根幹とも言えるからです。

 

 人生の成功に関する書籍は,本当に数多くあります。これまでにこのサイトでもいくつかご紹介してきていますが,書店に行けばそれこそ何十ではきかないレベルの数のものがあるのではないでしょうか。その中で「どれが本当の成功法則なのか?」を,さまざまな研究結果を用いて検証しているのが本書です。事例が豊富,ウィットに飛んだ表現といった点で,300ページ以上もありますが,その長さを感じさせないエッセイと言えるかと思います。

 

 とはいえ,監訳者の言われている「どうせやるなら,成功の確率が高いことをやればいい」というのは,半分は正解ですが,半分は不正確,でしょう。なぜなら,何を成功とするかは人によって違うだろうからであり,また,仮にそれが同じだった場合でも,その法則は現段階では仮説なだけの可能性があるからです。

 

 さておき,何を成功とするかは人それぞれとした時ふと思ったのは,2018年3月時点で森友問題でやり玉にあがっているような方々は,どんなタイプの方で,何をしたいと思ってらっしゃり,また何をご自身の成功と考えられていたのだろう? ということ。自分の価値観で評価するのは簡単なのですが,どんな人なのか会って聞いてみたいなあ・・・と。その方の成功のイメージは,自分の成功のイメージとどの程度同じもので,どの程度違うものなのか。

 

 なかなかそんな機会はなさそうですし,あったとしても本音を話してくれるわけでもないでしょうけど。というわけで(と言っては失礼なのですが),日頃お付き合いのある方々の成功のイメージを聞いてみたいな,と思ったりしています。